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13観能への道しるべ  シテ方喜多流 大島輝久

 福山において活動の中心としております定例鑑賞能では、演能の前に演者達による解説をしています。これは昭和33年に、祖父久見が定例能を始めた時、能楽教室と命名し、演者自身の勉強のためと観客の方々に能をより深く理解し楽しんで頂く為に発案し始めたものです。今でこそ解説付きの催しは全国に多く見受けられますが、当時はまだ非常に珍しく、しかも能楽師自身が解説をしている事から、一部では、大島は能の前に話をしているらしい、と皮肉を言われる事もあったそうです。
 父が人前で話すのを大の苦手としている関係上、私は十代のまだ能の事を何も理解していないような時から半ば強制されて解説をするようになりました。話をする事に関しては全くの素人である者が、決められた約10分の間で能の解説をする事は予想以上に難しく、当初は精神的にもかなりの負担で、もう止めたいと思う事も度々でした。
 しかし上京して以来、様々な舞台を外部から見た時に、日本文化が日常から離れてしまっている現代において、ことに初めてご覧になるような方々に難しい面もあるのではないか、と思うようになりました。それ以来、舞台と観客の方々との橋渡しになるような話が出来ればと思い、今に至っております。
 大掛かりな舞台装置を用いない能は、時に他の演劇では考えられない程、自由に時間や空間を行き来します。演じる側にとってはそれが当たり前の事で何ら疑問を抱かないのですが、見慣れない方にとっては付いて行けない部分になりがちです。自分自身がまだ何も解らなかった頃の素朴な疑問なども話の中に織り交ぜていければと思います。今後とも能と共に拙いおしゃべりにもお付き合い頂ければ幸いです。

13博多にて  喜多流シテ方職分 梅津忠弘

 「ぼうぶら」を御存知ですか。博多の古い方言で野菜のかぼちゃのことです。この名をつけた「ぼうぶら甚内」というドラマをNHKの若いプロデューサーが書き、FM福岡で放送することになりました。
 このドラマに私共の先祖がモデルになって登場するのですが、2つの顔を持つ男という設定になっているのです。波乱に満ちた幕末当時の黒田藩のお抱え能楽師梅津佐七は、勤皇の動きをする者や藩に反逆する者を、密命を帯びて暗殺する刺客であったという役割で、放送の許可をもらいたいという打診でした。御先祖を刺客?とはと思いましたが、おもしろい作品だったこともあり、お手伝いさせていただき、無事録音をすませました。
 遠い時代はこのような事があったかもしれず、現代には通用する話ではありませんが、もし現存していたらどんな雰囲気を持った人物であったでしょう。闇の中を動く人間は、恐怖心を押しかくし、張りつめた生き方を通していったのでしょうか。私の心のどこかには少しの羨望の気持もありましたし、興味深い人間を書いていただいたと承知した次第です。意欲あふれるプロデューサーの創造力に圧倒され、大いに影響をうけて勉強させていただいた数日でした。
 ここ博多の地は、比較的に能楽の盛んな所で喜多流人口も多い方だと思います。県や市の能楽協議会もいろいろと多方面に働きかけ活発に行動しています。若いシテ方、囃子方は、グループを組み新しい企画を考えて、子供達や若い人々へ普及するため意欲的に取組んでおります。能楽の将来への希望や熱望が強く感じられ協力を出来るだけ致すつもりです。
 先日、新作能の発表がありまして私も拝見しました。バイオリンなどの洋楽と合体した珍しい作品で、博多の祭り「山笠」の由来を元に創作されたものです。若い宝生流の女性能楽師の作でしたが、将来の能楽を考える時、様々な方向性を探りそれを実現する力を持つことは、大切な事でもあり必要な事でもありましょう。
 私の甥の息子は小学生ですが、興味を持ってくれまして今熱心に稽古を続けております。未来のこの世界がどのように変化して行くのか想像するのは難しいですが、かすかな望みを持って能楽梅津家をこの子に預けようと思っております。伝統の重みも充分に考えて育ってくれればと、良き発展だけを願い、私もまだ少しは残っている力をふりしぼって希望を持って努力して参りたいと存じます。
 私が喜多流に内弟子として入りました時、政允さんは修業中の先輩で、四十余年の長いおつきあいになりました。父を早くに亡くした私は、後援して下さるお弟子さん達の力で修業時代をおくりました。故、久見先生は、そんな状態の私に数々の御指導を引受けて下さり、支えていただいた事は生涯忘れぬ御恩を受けたと思っております。大島家の皆様には現在も御心配をおかけ致しておりますが、今日まで続けてこられたのも後押しして下さったおかげと深く感謝申上げる次第でございます。
 先祖にならって少しは緊張する心を持ち、ふんばって、がんばって参りたいと思う今日この頃です。

13「鞆浦」に大島家との縁を想う  大鼓方 観世流 守家由訓

 今年のお正月も2日の田賀屋狂言会「三番叟」岡山後楽園能舞台、3日の大島家の新春能楽祭「翁」沼名前(ぬなくま)神社能舞台に出演させて頂いた。両能舞台とも屋外にあるので、空調設備の整った能楽堂とは違って、自然の中に生身の体を晒すこととなるが、それが却って厳粛な雰囲気を生み出し、一年のスタートとしては申し分ない。昨年末の寒さに比べると、両日ともそれ程でもなかったが、「翁」となると大鼓の場合、三番堂を打ち出すまでに30分程じっと座っているわけで、体がブルブルと震えるのを抑えることができなかった。まだまだ修行が足らないと自戒する一方で、このような歴史のある能舞台に立たせて頂くことは、誠に光栄なことと感謝の気持ちで一杯になる。また時流なのか、関西でも「翁」を勤めさせて頂く機会がめっぽう減少した昨今を思うと、どうぞ末永く続けて頂きますようにと、勝手なお願いをせずにはいられない。
 3日の新春祭は社中の皆様と一緒に昼食を頂いてからお開きとなるが、その後、大島家の方々と我々囃子方は大島能楽堂に場所を移して、勉強会を行うことが恒例となっている。今年も能楽堂に戻り、一階の喫茶室でコーヒーを頂いている時、私にとって嬉しいものを見つけた。この喫茶室は資料室も兼ねており、大島寿太郎師が大正6年に初演された新作能「鞆浦」の初版本も展示されている。平成7年には沼名前神社能舞台に於いて政允師よりこの能が復曲上演されたが、その日もその記念として建立された石碑を見ていたので、自然とその謡本に目が向いた。その謡本を手に取り眺めていると、やがて末尾に書かれた能組(番組)に「加藤八百作(やおさく)」という名前を発見したのだ。加藤八百作氏は私の祖父・金十郎の師匠の師匠に当たる方である。その方が新作能「鞆浦」の上演メンバーに名を連ねておられる。大島家と当流との縁(えにし)を想った瞬間だった。
 当流について伝え聞いたことを簡単に述べてみよう。当流は元禄年間に小鼓・観世家の六世新九郎(当時は将軍綱吉の命令により宝生座に移籍させられていたため、正確には宝生新九郎)が三男・弥三郎を会釈(あしらい)大鼓(小鼓方が自分の手組みを折り合いよく演奏できるように作った大鼓)方として取り立て、一旦絶えていた大鼓の家の再興を許されたことに始まる。後に小鼓・観世家のみが観世座に復帰したために、大鼓の家は幕末まで宝生座付のままに継承され、維新後、宝生錬三郎を最後に再び断絶した。近年まで当流が宝生錬三郎派と呼ばれていた根拠はここにあるが、流儀名称変更のことは後述したい。八百作氏は九州の豊後竹田(岡藩)の出身で、明治後期に手薄な東京の大鼓方を助けるために上京するが、やがては東京を辞し、中国地方に拠点を移し、岡山で亡くなられた。八百作氏から、加藤幸直(本名・槙田麟二)氏に伝承され、祖父が受け継いだ。当流の勢力は時代を通して微弱だったらしく(残念ながら現在もそうである)、明治期に活動した人は八百作氏以外知られていない。ただ、祖父は先の大戦で疎開していたために、散逸したものも多く、詳細な事情は不明である。ご存知の方があれば、是非とも承りたいと思う。
 僅かに残っている八百作氏の演能記録には、福山のものも見受けられるが、「鞆浦」は謡本も伝わっておらず、その時初めて承知することとなった。この初版本には、詞章だけでなく、型附、手附、間狂言の詞章等上演に関する書き付けが為されていたと記憶するが、何故か大鼓の手附は葛野流であった。再演時の記録であろうか。落胆したことを今も思い出す。
 なお、その能組には、八百作氏を宝生流と紹介してあった。実際には、八百作氏は宝生錬三郎遺流と名乗っていたらしい。横田氏もそうであった。戦後に能楽協会へ流儀の登録を申請したが、何らかの理由で宝生錬三郎派が採用されたようだ。後に、祖父が能楽協会へ流儀名称の変更を申し出て、昭和61年に承認して頂いた。その際も宝生流ではという議論があったように承っている。
 今回のことは先人の軌跡に一瞬だけ触れた、申すも憚られる出来事だが、私には先人達から私へと続く線のようなものをはっきりと感じさせた。その線は細く、弱々しいものだが、まだ先へと続く線でなくてはならない。お蔭様で、祖父・父・私と守家家3代に渡って多大なるご交誼を賜っている大島家をはじめ、多くの方々のご尽力で流儀という線を繋ぎ続けることができた。このことに深く感謝し、その御恩に報いるためにも、微力ながら、その線を少しでも太く、強いものへと変えて行きたい。

13謡・仕舞・能との出会い  広島大島会会員 丸本 積

 若い頃、父が稽古を受けていたご縁で、最初に稽古していただいたのが、立石先生(正教授)でした。
 謡は言うまでもなく、礼儀作法について非常に厳しい先生でした。とは申しましても、当時の弟子の中では私が一番若かったものですから、お小言は全て先輩の皆様が受けて下さり、随分と可愛がっていただきました。
 その立石先生がお亡くなりになられて、これからどうしようかと思っていましたところ、永井さんより「福山の大島久見先生が広島の妙慶院で出稽古をされているが、一緒に教えていただいたら。」と言うことで、お会いしお願いしましたところ、快くお受け下さり、昭和48年秋頃、稽古が始まりました。
 最初の稽古の時、「舞は何を?」と問われまして、思わず「松風をお願いします。」と申しますと、「えっ?松風を?」と申されて振り向かれた時、こんな大きな舞をどうしてお願いしたのかと反省もし、汗顔の至りでした。以後は先生になにもかもお任せする事と深く自戒しました。
 昭和52年より、政允先生が大先生と合流され、型を大先生、謡を政允先生にと、誠に贅沢なお稽古をしていただき、恐縮したものです。当時は、大村先生のお弟子を預かっておられ、賑やかな稽古でした。
 先生はいつも、仕舞を見ておられる時は厳しいお顔でしたが、ひと通り舞い終わりますと「ハイツ、いいですよ。」と仰り、それまでの厳しいお顔がこコッと微笑まれますと「今日のは良かったんだ!」と心の中で大喜びしていました。
 平成8年頃「お能はいかがでしょうか?」と先生にご相談致しましたところ、「お孫さんと一緒のもので、鞍馬天狗はどうですか?」と仰って下さり、平成9年6月1日、アステールプラザの能舞台で能のシテを初めて勤めました。子方に孫の智也(小2)、拓未(幼中)、崇史(小3)、大島会の光成氏お孫さん・上野大君、竹本氏お孫さん・川本裕之君。それぞれリハーサルの時には、政允先生に何度か稽古を受けました。
 本番の舞台で「花見」が済んで帰る時、もう皆は帰ってしまったのに、一番下の拓未は案の定、一人ゆっくりゆっくり幕に向かっておりまして、遂に長田先生に抱きかかえられて、皆様の笑いの声に送られ、幕に入って行きましたのは、冷や汗を感じながらも楽しい想い出です。
 お能の中の一節「月にも花にも捨てられて候」に、アシライで正対して、智也と顔を合わせました時、思わず涙が出るはど感激し、よくここまで稽古してくれたと孫に頭の下がる思い、大先生の心をいただいた事に感謝致しました。それまでの稽古の会場には、必ず大奥様が来ておられ、不安一杯の私に「先生はね、あなたを会までには必ず仕上げて下さいますから、安心して先生に任せなさい。」と励まして下さいました。若奥様も同様にお心遣いいただき、皆様のお力添えあればこそ、どうにか無事勤め終わったと感謝した次第です。
 衣恵さんとの出会い - 随分昔の話ですが、能舞台を使って木村功主演の、瀬戸内にまつわる映画の撮影をされる事となり、その時、謡があるので地謡に…との事でした。撮影日に朝早くから意気込んで先生のお宅に行きましたが、中止となっていたのでしょう(私の失念)。大先生が、何しに来たのかとニッコリされ、折角来たのだから下の稽古舞台で待つように言われ、ぼんやりとしておりましたところ、衣恵さんが、まだ小学校低学年でしたでしょう。「おじちゃん、これはね、お能の時に使う面なのよ。」から始まり、6面ほどの解説をしていただきました。「これは小面…女の人のもの。これは翁…おじいさんのもの。」やはり、栴檀は双葉より芳しかと痛感致しました。
 そうこうする内に、大先生が二階より降りて来られ、「あんた、今日これから帰ってもすることがないだろうから、暑気払いに舞台の拭き掃除をして帰りなさい。これも一つの修行だから。」と申されました。有難い事と感謝して、その方法も伺いました。『一、汗を一滴たりとも舞台に落とすな。その為に鉢巻をすること 一、雑巾は何度も洗って黒くしてはいけない。また、よく搾って使うこと 一、心を込めて丁寧にすること』顔では笑って仰いましたが、暑いのと緊張でフラフラになった良い思い出があります。でも、広島大島会会員で、本舞台を拭かせていただいたのは私一人であると、自慢に思っております。
 輝久さんとの出会い - ある年、広島大島会秋の会の際に、仕舞で船弁慶の切舞をさせていただきました。申し合わせの時、どうしたことか足も運べず、長刀も使えず、会を明日に控えて途方に暮れていましたところ、輝久さんが声を掛けて下さり、残って稽古してもらい、危機を脱したことは、本当に嬉しかった想い出です。
 こうして振り返れば、私自身、声を大にして自慢できるものはございませんが、大先生、政允先生より受けた教えを精進し、お正月元旦には地元の岩瀧神社での互例会において、初謡を、もう20年ほどさせていただいております。
 今後も元気でいる問は、微力ながら広島大島会を少しでも盛り立て、恩返しさせていただければ良いなと思っております。
 今年の6月にはお孫さんが誕生されるとお聞きしております。大島家の益々のご清栄を心より祈願致します。

13「せとうち堪能名舞台」の"きせき"  広島県観光キャンペーン実行委員会 瀧口公照

 「せとうち堪能名舞台」は、20年ぶりとなる広島県大型観光キャンペーン(平成16・17年度実施)のイベントとして、喜多流大島家様の御協力のもと、福山市様、地元の企業の皆様、福山商工会議所様の御賛同もいただき、平成17年度に鞆の浦にある沼名前(ぬなくま)神社能舞台で実施することができました。(3回実施‥10月1日、10月8日、11月5日)

 実施が決まり、「せとうち堪能名舞台」をPRする上で、特に強調したことがあります。
 まずは、沼名前神社能舞台です。ここは全国で唯一の国重要文化財の組立式能舞台であること。そして、あの豊臣秀吉が遺愛した舞台であること。次に、上演内容です。備後地方を題材とした新作能「鞆のむろの木」を地元の鞆で上演すること。また、2回目、3回目では、能楽器体験、謡といった会場全体での参加型を取り入れたことであります。
 「能」に造詣が深い方や地元の方のみならず、広く一般の方にも御覧いただきたいという気持ちで取り組んでまいりました。能をきっかけに鞆を知る方もいれば、鞆をきっかけに能に触れる方もいればよいと考えた次第です。
 特に、大島衣恵様には、このような趣旨を汲んでいただき、東京での観光説明会(旅行会社や旅行雑誌社へのPR)やTV広報番組への出演、広報誌「すこぶる広島」への掲載といったことで御協力をいただきました。いずれもとても好評でありました。本当にありがとうございました。
 その他では、喜多流大島家の皆様が御指導された小中学生の発表の場にもなりました。児童、生徒の皆さんは、能を通じて地元の歴史や文化にも触れ、貴重な体験ができたのではないでしょうか。
 また、喜多流大島家の名プロデューサー大島泰子様には、本来の活動はもとより、新たな取組み・協賛行事として「鞆のむろの木 花めぐり」を企画・実施していただきました。

 こうして様々な準備を行って上演当日を迎えたわけですが、参加された方は御承知のとおり、まさに幽玄耽美の世界で、成功裏に終了いたしました。秀吉も舞ったであろう舞台、大伴旅人が見た風景と思い、菅茶山の登場、そうしたものが融合し、何ともいえない感覚、時間の重みも染み入った過去との邂逅と申しますか、せとうち堪能名舞台らしさが心に残りました。上演後、鞆の浦の地酒である保命酒、びんご路銘菓「むろの木」の味とともに、せとうち堪能名舞台の味も再度かみしめたことを思い出します。

 「せとうち堪能名舞台」の成功という中には、当日、お客様に多数お越しいただき、能上演が好評だったことはもちろんですが、能を通して「鞆の浦」という地を発信することができ、地域のホスピタリティ意識の醸成や鞆の魅力の再認識にかなりの影響があったことも含まれると思います。お客様との会話の中で「鞆のむろの木」だから見に来たという声も聞かれましたし、鞆の散策途中にも、いろいろな場所での〝せとうち堪能名舞台″ポスター掲出や、「輌のむろの木 花めぐり」で写真撮影される訪問者のお姿、さらには「どこかお探しですか」から始まるたわいのない地元の方との会話でそのように感じられました。振り返ってみますと、「せとうち堪能名舞台」は、上演に当たっての準備・取組みという〝軌跡″があり、上演内容に〝奇跡″があり、また、大型観光キャンペーン記念としての〝貴石″でもあり、地域活性の〝基石″にもなったと考えております。
 鞆の浦から生まれた「せとうち堪能名舞台の〝きせき″」は、瀬戸内海と同様に、きらきらとした輝きをもった素晴らしい財産といえるのではないでしょうか。
 この〝きせき″に巡り合えたことを嬉しく思いますと同時に、〝きせき″を生み出してくださった喜多流大島家の皆様をはじめ、関係者の皆様、鞆の浦に感謝申し上げます。
 今後ともこうした〝きせき″を大切にし、積み重ねながら育ててまいりたいと考えておりますので、皆様方の御支援、御協力を賜りますよう宜しくお願いいたします。

13能学習発表 鞆 沼名前神社能舞台  福山市立鞆中学校 2年生

 私は「能」の学習を通して、「能」の歴史や作法について学ぶことが出来ました。今まで「能」が、どんな事をする物なのかということも知らなかったけど、「能」についてよく知ることができたのでよかったなと思います。
 私は日頃から姿勢も悪いし、正座なんてする時がありません。でも、「能」は姿勢を正す事、正座をする事が必要だったので初めのうちは大変だったけど、だんだんと出来るようになりました。
 「能」を学習することで日々の生活の事についても考えることが出来たので、これからは日々の生活にも活かしていけたら良いと思いました。私は初めて着物を着たり、袴をはいたりしました。少しきゅう屈だと思いましたが、着物なんて普段着る事も無いし、着れてよかったと思いました。本番の前の日に、沼名前神社にそうじに行きました。能舞台をみて、本当にこんな所で自分達の「能」をみてもらうんだと思うと、少し緊張してきました。それと同時に、明日はがんばろうという気持ちが大きくなりました。
 本番の日、私は大島さんに教えていただいた事を一つ一つ思い出しながら準備しました。たくさんの人が来ているのを見ると、緊張が高まりました。でも、舞台は無事成功して、達成感もあり、よかったです。「能」を終えて、今までにない経験になったし、本当にいろいろな事を知る事ができてよかったと思います。「能」で学んだことを忘れないようにしようと思います。