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11200回記念公演を通過点として  喜多流職分 大島政允

 父久見が昭和33年から始めた定期能が、本年2月の公演で200回の節目を迎え、「清経」を先輩の友枝昭世氏に、私が「絵馬女体」を勤めさせて頂きました。おかげさまで、大勢の方々にお越しいただき、熱心に鑑賞頂きましたこと有難く感謝申し上げます。私は、初回公演後に上京し喜多宗家の内弟子となり、修業時代を経てこの道を父久見と共に歩んできました。あれから約50年、この定例能公演は、父にとっても私や息子達にとっても修練と発表の場として多くの無形の財産を提供してくれました。当初は、戦後建て増ししながら出来上がった舞台での公演でしたが、父は昭和46年に現在の能楽堂を建て、その舞台披きに、私は「道成寺」を披かせていただきました。わずか5、6ケ月の突貫工事でしたので、当日の楽屋の壁は乾いていず、あちらこちら不備な所だらけで皆てんてこ舞だった事を懐かしく思い出します。
 今、その能舞台の中央には足袋の裏で摺りこまれた足跡が一筋ついています。この舞台で父は自分で納得のいくまでとことん稽古を重ね、大曲を披き数多くの演目を勤めました。正にあっぱれな能楽人生だったと思います。また喜多宗家の先生方や後藤得三先生、友枝喜久夫先生など、今は故人となられた名人の方々にもたびたびお越しいただき、舞台を勤めていただきました。
 201回公演は、父久見の一周忌記念能として、金子氏に「白田村」を、私は父久見が平成9年4月に能人生の締めくくりとして舞納めた、思い入れの曲「西行桜」を勤めます。

11おかげさんで お豆腐狂言  大蔵流狂言師 十三世 茂山千五郎

 私が十三世千五郎を襲名しましたのは平成6年でして、同時に父(本名・七五三)は十二世千五郎から四世千作を襲名しました。狂言茂山家の古いことは安政元年の大火と元治元年の兵火で消失しまして、古いことはよう分からん事もあります。
 千五郎の名前をはじめて名乗った九世千五郎(正乕)のことから少しお話ししましょう。この人は文化7年に佐々木家に生まれて幼名を忠三郎といっていましたが、8才の時、茂山久蔵に入門し、11才で養子になっています。久蔵の死後、江戸の大蔵流の家元に修業に行き、京都に帰る際、大蔵家にとって大事な文字である〈千〉と〈乕(虎)〉の2字を貰い、千吾正乕と名乗りました。天保元年、彦根城本丸の能舞台で能会があり、高齢のお抱えの狂言師が秘曲の「枕物狂」演能中に倒れ、その時弱冠33才の千吾がとっさに代わって無事最後まで勤めました。それを見ていた井伊直弼が「その方、今日から召し抱える。名は何という」と尋ねられ、その時、「千吾」を「千五郎」と聞き間違えたとの事です。以来、茂山家は彦根藩のお抱え狂言師となり、当主名も(千五郎)と名乗るようになりました。
 その後、大老井伊直弼は、お気に入りの千五郎のために自ら「狸腹鼓」「鬼ケ宿」という狂言を書いています。この2曲は茂山家では(家の狂言)として大事に扱っています。
 その後、井伊直弼は桜田門の変で暗殺され、明治維新後、幕府や薄から扶持を貰っていた能役者達は路頭に迷いますが、茂山家が狂言を捨てずその芸を守り通すことができたのは、東西本願寺や旧公家の庇護のおかげです。その内の一人、冷泉為理は、「子の日」「郭公」「白菊」「網代木」の4番の狂言を茂山家のために作っています。
 正乕は一時、千作を名乗っていたこともあり、(千作)という名もこの人から始まります。
 次に、茂山家の狂言がお豆腐狂言と言われるようになった経緯をお話ししましょう。正乕には3人男子がいたのですが、上の2人は早死にしまして、三男・正塁が十世千五郎を継ぎました。
 十世千五郎は神仏に関係した事業には大変熱心でした。奈良の春日大社のおん祭りには明治13年以来70年間にわたり欠かさず奉仕し、継続不能になっていた壬生寺の念仏狂言も維持会長となって継続できるようしまして、今日では国の重要民俗芸能に指定されています。また東山、泉涌寺即成院の25菩薩のお練り供養の創始にも尽力しました。
 そして十世千五郎は、それまで能と一緒で格式ばっていた狂言をもっと町の人々に親しんでもらいたいと、お寺の縁側やお座敷、学校の講堂などどこへでも気軽に出かけ、狂言普及に大きく頁献したのです。そして、京都の町では「おかずにつまれば豆腐にせい、余興に困れば、茂山の狂言にしとけ」と言われるようになり、これが、お豆腐狂言の謂れです。
 福山と私方とのお付き合いは何時頃からかはっきりしませんが、記録としては大島寿太郎氏が大正3年に大島能舞台を建設した舞台披きの
 初 日(4月3日)番組に
   「寶之槌 茂山真一」
   「伯母ケ酒 茂山千五郎」
 二日目(4月4日)番組に
   「井 杭 茂山真一」
   「素袍落 茂山千五郎」
とあります。私方へはこの番組は残っていませんが、2年程前、大島家の展示サロン室で大島寿太郎氏の手書きの記録書の中に曽祖父と祖父の名を見つけました。この茂山千五郎が十世で私の曽祖父、真一が十一世千五郎で私の祖父です。
 十一世千五郎(三世千作)は、戦後の大島家の演能にはたびたび寄せてもらいまして、昭和46年の大島能楽堂舞台披きの「翁」でシテを後藤得三氏、祖父が三番三、私が千歳を勤めています。その折、祖父は小舞「七つに成子」も勤め、昭和48年には「鳴子遣子」を勤め、それが福山での最後の舞台になったようです。
 私の父四世千作は戦後、福山でも狂言のお稽古を始めまして、藤田琴城氏、古川拓郎氏、清水善四郎氏、西上正字氏等熱心なお弟子がおられました。月1回のお稽古はこちら(大島宅)をお稽古場に拝借していましたが、現在は広島市内でのお稽古にしています。昭和33年から始まった能楽教室(現 定例鑑賞能)にも毎回のようにお声をかけていただいており、私もイガグリ頭の高校生の時から父と一緒に寄せて貰っています。叔父の千之丞、弟の真吾(現七五三)、千三郎、従兄弟のあきらなどと一緒に若い者達も寄せて貰い、福山は古いお馴染みの舞台です。
 私方へ内弟子から狂言師になった者が何人かいますが、広島県出身者に丸石やすしと松本薫がいます。彼ら2人とも大学卒業後、内弟子修業を経て、今では茂山狂言会のなくてはならないメンバーとして活躍しています。現在、茂山狂言会のメンバーは内弟子を含めて20人程いますが、おかげさんであちらこちらからお仕事をいただいて皆でこの道を頑張っています。
 若い者がホームページとやらメールとやらファンクラブ通信やら色々工夫したり、テレビやラジオ、ステージなど皆自分の得意な事をのびのびとやっていますが、今後も、皆仲良うやってくれたらと思っています。現在、ファンクラブのメンバーは全国に二千人ぐらいです。昨年京都のホテルで盆踊り大会をしましたが、狂言の小舞「暁の明星」と「盃」を盆踊り用に編曲作曲してもらいましたオリジナル曲で皆さんに踊ってもらい、大変に盛り上がりました。今年はまた宝塚でやります。乞う、ご期待です。
 10年程前には父と叔父が相次いで大病を患いましたが、おかげさんで、その後驚くぐらい元気で助かっています。家の者の稽古は代々爺さんが孫の稽古をつけるのが良いようで、三世千作が私や弟達を、四世千作が私の息子達をというようにしてきました。昨年、長男正邦のとこに男子の双子が生まれまして、竜正(たつまさ)・虎真(とらまさ)と名づけましたが、おかげさんで元気にすくすくと育っていますので、楽しみなことです。
 私は今年60才になりますので、還暦記念にと「釣狐」を茂山狂言会で2日連続演じ、その他東京名古屋など計7回演じます。その為、2年はど前から好きなお酒も絶ち、朝は2時間程ジョギングをして健康に気をつけています。孫達のためにも後継者の育成のためにも、まだまだ元気でいたいと思います。

11能楽師への道  喜多流職分 長島 茂

 今回、重要無形文化財総合指定の認定を受けた。15才で故十五世喜多突先生の内弟子に入り、能の道を本格的に歩き出して30年が経った。この認定を受けてやっと一人前の能楽師になれたと実感した。この私を能の世界に導いてくれたのが大島久見先生である。
 今回政允師の奥様から原稿の依頼があった時、子方時代の事を書こうとすぐに思った。私が久見先生に習い始めたのは昭和40年、小学校1年生の時である。その前年に父が久見先生に習い始めていた。その頃の私は悪ガキであまりに行儀が悪かったので、稽古をすれば少しは行儀が良くなるのではと父が久見先生の元へ連れて行ったようだ。これがこの能の道に入るきっかけである。
 初舞台は昭和40年10月の秋の会の仕舞「金札」である。それから中学3年生までの9年間、久見先生に稽古をしてもらった。その間子方11番、能4番、ツレ3番、舞囃子10番、仕舞17番の記録がある。舞囃子、仕舞より子方を11番させて頂いたのが思い出深い。地元福山以外に徳島、松山、大阪と連れて行ってもらった。一番終ると、「先生、次の子方は何? 今度はどこに連れて行ってくれるの?」と聞いていたらしい。舞台に出る事が大好きで、嬉しくて楽しかったけど、色々な所に連れて行ってもらった事がとても嬉しくて楽しかったのを覚えている。
 いつ頃から能楽師になりたいと思い始めたのか覚えていないので両親に聞いてみた。が、やはりはっきりした時期はなかったみたいだ。何となく自然に能楽師になりたいと思ったようだ。久見先生からも、「お前は能楽師になるんだからね。」と言われたことはなかった。いつだったか、私が能が好きで好きでたまらないから能楽師になりたいと言った覚えがある。その時、能楽師になるには家元の内弟子にならないといけないよと言われたので、中学を卒業したら東京へ行くんだと自分で勝手に決めていた。久見先生も始めの内は子供が無邪気に言っているだけと思っていたようであるが、中学を卒業したら東京へ行くんだという私の態度を見て、その内本気で考えてくれるようになったみたいだ。それなら今から内弟子という訳でもないが、稽古がなくても毎日稽古場に来なさいと言われた。それから学校から帰ると、ほとんど毎日久見先生の家へ行った。これは謡を毎日聞くということと、常に身近に稽古の中にいることが大切ということなのだが、とにかく悪ガキの子供だったので謡をジツと座って聞くとか仕舞の稽古を見るとかは全くせず、大島家の中を遊び走り廻っていた。当然おとなしくしろと何十回注意、叱られた事か。
 その内に背が伸び、声変りなどで子方ができなくなると、子供の稽古から大人の稽古に変わった。謡本を見て謡の稽古をしたり、型の稽古も厳しくなった。これは内弟子に入った時に困らないようにと考えて稽古をしてくれたのだと思う。そして中学卒業の後、久見先生の骨折りで実先生の内弟子になった。能楽師の家の子でもない普通の家の子が、ただ能が大好きだからと言ってどこまで我慢できるかと久見先生は不安だったと思う。私は内弟子になれた事が嬉しいのと、東京で暮せるのが嬉しいのとで、この先どうなるかは全く考えなかった。内弟子に入ってから、つらいからとか厳しくてついていけないからやめて帰ろうとは一度も思わなかった。
 これは、福山の時に稽古やこの世界のしきたりを教えてくれた大島久見先生のお陰だと思っている。能の世界に導いてくれた久見先生には本当に感謝している。先生がもう半年、長生きされていたら認定の報告ができたのに残念でならない。これからもっと良い能を舞う事が先生への恩返しだと思っている。

11次ぐをもて家とす  福山喜多会元会長 向田一馬 (向田医院理事長)

 毎年1月3日に行っております、福山喜多会主催・鞆浦沼名前神社奉納初謡会は、皆様のご協力の元、本年第10回を迎えることが出来ました。天候にも恵まれ、多数のご参会を得られましたこと、御礼申し上げます。
 小生が大島久見先生の元で謡いの稽古を始めたのは、昭和51年のことでした。丁度同じ年の8月には、東京より政允先生御一家が帰福され、社中一同安堵と期待とでお迎え致しました。幼い頃の衣恵さんや輝久さんの姿が、懐かしくも昨日のことのようにも思い出されます。
 『風姿花伝 第一』(世阿弥 著)の「年来稽古条々」には、
「この芸において、大方七歳をもて始めとす。この比の能の稽古、必ずその者自然と為出だすことに、得たる風体あるべし。舞・はたらきの間、音曲、もしくは怒れることなどにてもあれ、ふと為出さんかかりをうち任せて、心のままにせさすべし。さのみに、良き、悪しきとは教ふべからず。余りにいたく諫むれば、童は気を失ひて、能ものくさくなりたちぬれば、やがて能は止まるなり。」
とあります。
 現在大島家が政允師を中心に、若い方も一緒に伝統を守っておられる姿を見るにつけ、久見先生の温情溢れる千変万化の躾が思い出されてなりません。
 この30年間の忘れ難い思い出は、大正6年に作者・大島寿太郎氏により初演された能『鞆浦』が、孫にあたる政允師によって、平成7年10月7日鞆浦沼名前神社能舞台(国重要文化財)に於いて、復曲上演されたことです。シテを政允師、シテツレを松井彬師と衣恵師が勤められ、奉納されました。また、多数の協賛者のお陰により、先人の敬神の念に思いを馳せ、石碑『鞆浦』を建立し、永く追慕の記とされたことは深く心に刻み付けられております。その石碑の脇に拙宅の松を移植させて頂けたことも感慨一入です。
 『風姿花伝』の奥書には、
「この口伝、当芸において家の大事、一代一人の相伝なり。たとへ一子たりといふとも、不器量の者には伝ふべからず。家、家にあらず。次ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもて人とす。と言へり。これ高徳了達の妙花を窮むるところなるべし。
 命には終わりあり。能には果てあるべからず。」
と記されています。
 平成7年に久見師・政允師・輝久師による三代能を催され、福山の地でしっかりと能を伝承なさっている大島家には、伝統芸能の底辺拡充に益々ご尽力され、皆々様のご期待に添われるよう、祈念いたしております。

11七耀に輝いた『定家』  福山喜多会会員 歴史小説家 藤井登美子

 『定家』の能を仮に絵画的に語るならば、すべてが色彩を失った薄墨の世界にあって、ただ一所だけ紅を掃いたような蔦かずらの色を、どこでどのように自分自身が感得できるか、それに尽きるのではあるまいか。
 この度の演能はいつも格調高い能の美を堪能させていただく大島政允先生、地謡の友枝昭世先生、その他にもそうそうたる先生方ばかりのご出演である。だから私は何の迷いもなく、謡い本や解説書にも目を通さずに「あなた任せ」のままで見所に座ってしまった。
 その横着さゆえに、ふっと不安を覚え始めたのは、クセに入って間なしであった。
 私は『居グセ』のある曲が好きである。寂として動かないシテの面に視線をこらし、高まりゆく地謡の美しい調べに身をまかせていると、胸の奥が切なくなるような熱い想いに充たされてくるからである。
 だが、『定家』のクセは、どんなに耳を澄ませても、まるで頭上を圧えつけられたような重苦しい旋律の響きだけしか聞こえてこない。なぜ? 不安は焦りにかわりつつあった。
 紺色の幕が引かれ、薄紫の袴姿と金色の刺繍に彩られた高貴な式子内親王のお姿が現れて序の舞となった。九十九髪の媼のようなわずかな歩幅、しかしその数センチにも等しい歩みにこめられたシテの気魂は、見所の私たちにもひしと伝わってくる。
 シテだけではない、地謡の響きも笛の音も、シテの動きと混然一体となり、圧えに圧えた息苦しいほどの気迫が能楽堂を包んでいく。
 何かに例えるならば、音速を超えたジェット機が突然進むことを止め、逆噴射しながら上空を旋回しているような、別の表現をすれば、いずれも剣の達人が、見た目には静かに切っ先を対峠させたまま、内面では刃の折れんばかりの激闘を交わしているかのような、そんな息苦しさ。一瞬でもこの緊迫の綱引きから外れると睡魔におそわれるかも知れない。
 不勉強だったから、とうとう『定家』の葛の色が見られなかったのかと、激しい後悔にさいなまれていたその時のことだった。
 シテが、否、やせ女の能面が口を聞いたのである。はっと目をこらしてみれば、有り得べからざることが出現していた。
 シテの姿が淡い虹色の光につつまれているのだ。能面が動いて、その口もとから詞は発せられている。つまり、大島先生の能姿ではなく、まぎれもない式子内親王のお姿が七耀の輝きにつつまれながら目前にあった。
 科学的にいうならば、それは極度の緊張感が生んだ錯覚であったのかも知れない。
 しかし、そんなことはどうでもいい。『定家』を観たい! と激しく願ったがゆえに、最後にようやく垣間見ることができた。
 それは予期していたようなあでやかな紅の色ではなく、あたかも時雨の後に雲間からもれくる虹色の陽光のような淡い色ではあったが、「絶えなば絶えね」とでもいうような緊迫の果てに、やっとつかまえた大曲『定家』葛を、私は生涯忘れることはないだろう。