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樫木端に寄せて  喜多流職分 大島政允

― 我が家の能関係の古い蔵書の中に「樫木端文庫」なる印が押してある本が数十冊ある。祖父寿太郎や父久見が大事にしていた能の本は、疎開先に移動していたのであろう、福山空襲の被害にも遭わず、現在我が家に残っている。"樫木端"(かしのきばな)とは、江戸時代の頃より明治・大正のいつ頃までか、この辺り(福山市光南町)の地名であった。福山城から少し町外れで、辺りには田んぼや蓮畑の間に大きな樫の木があって、そのような地名が付いたのかもしれない。 ―
 今般、私方の能楽堂一階部分の全面改修工事をいたしました。昭和46年に父久見が鉄筋コンクリート3階建てビルの中に能楽堂を建てましたが、あちらこちら老朽化しておりました。この地での今後益々の能楽発展のために能舞台に相応しい和風の玄関部分と能を色んな角度から愉しんでいただける展示サロン室をもうけ、この部屋を"樫木端"と名づけました。祖父や父がこの地で能を守り、伝えたいと努力した証として樫木端にその想いを託すことができたらと思っています。
 そして、650年間、日本の国の中で育まれ受け継がれてきた能楽の中に、日本を代表するすばらしい文化が詰まっていることを能舞台と共に"樫木端"でも再発見していただければ、幸いです。"樫木端"を有益に広くご利用頂くよう皆様からのご意見、ご要望をお聞かせ頂きたく存じます。宜しくお願い申し上げます。

伝え継ぐ  喜多流職分 塩津哲生

 今の大島家の当主政允氏とは先代宗家喜多実先生の元で住込内弟子として8年間同じ釜の飯を食べた濃い仲間である。成城高校で彼
は3年、私は1年、中学時代を入れると2年間同じ学校に通った。当時昭和35年頃は新宿歌舞伎町前から牛込若松町まで都電に乗っての通学であった。この都電も廃止になって久しい。私と同い年の香川の靖チャンはいつも一緒であったが、政允氏は寝坊なのか、鈍いのかいつも一足遅く、ひと電車遅れるのが常であった。我々でも遅刻ギリギリなのにそれより遅い彼は必死、都電の次の停留所新宿3丁目まで電車と競争している姿を電車の中から2人で眺めるのが日課であった。校則は厳しく始業と同時に門が閉まり怖い先生(今でも憶えている、司馬・毛塚)が門の前に立っていてこっぴどく説教を喰らう。その怖さに我々2人はその姿を見るや踵を返し、学校をさぼってしまうのだが、彼はそのどちらも選ばず塀を乗り越えて教室へ直行、となかなか達者な立ち回りをしておられた。
 当時は、実先生が我々の学校からの帰りを待ち受けての稽古が毎日であった。くず屋の角を曲がると張盤を敲く音が聞こえ、「あーあ今日も稽古か、いやだな」と思いながらもおやつのあんぱんを頬張り、靴のかかとを踏み大急ぎで着替えに走ったものだ。今思えばこんな贅沢な有難いことはないのに15、6の当時はなんとも先生が怖い毎日であった。怖い厳しい稽古なるがゆえ、私は畏縮してしまい、強く大きくと云われてもコチコチに固くなって肩や肘を叩かれてばかり。「気を掛けろ」と言われるので気張れば肩に力が入っていると肩を叩かれ、肩の力を抜けば気が入っていないと怒鳴られ、当時「これは先生の意地悪に違いない」と真剣に思ったものである。
 丹田と腰のみに力を蓄え、肘にほどよい力が備わり、胸の周りに気力が漲り、それが大きく外へ放たれることが一念の先生には、まだまだ小僧の私共が歯がゆくてしかたがなかったに違いない。稽古はご自宅の舞台が多かったが目黒の舞台のこともあった。たしか政允氏の「経政」の稽古であった。面をつけていたので会間近であったと思う。切の「あら恥ずかしや~早や人々に見えけるぞや」の処で正面先へ出て身を入れる型がある。その出方が、気が入ってないと何度もやり直しをさせられた。面をつけているので度重なる内に最初に立つ位置が変ってしまった。大小前が何度目かに座高く中央位になってしまった。このままでは絶対舞台から落ちると、地謡に座っている我々には判ったし、先生も判っていらしたはずである。「落ちるよ」と言ってあげたくても、とても声に出す雰囲気ではなく続行、案の定舞台正面の階に転げ落ちてしまった。能の舞台には不可欠の、この場の厳しい空気。今はこの厳しさがどこにもない。能の演技は、この厳しさ、ものも言えないほど切羽詰まった気迫、燃え滾る魂、これらが加わって初めて成り得るものである。
 能は演劇の一つであり、観せる舞台芸術の一つには違いないが、目に映る形よりも心に響く、目にみえない力が観る人の心を揺さぶる。その力を出し得て初めて能といえるのではないだろうか。観る人を魅了させるだけの演技力を備えた能役者も多く、能の人気も高い。しかし、心に深く感動を与え、魂を動かす程の能がどのくらい舞われているだろうか。時代的背景もあり自然の成り行きかも知れないがすべてが豊かになり、和やかになっている今日、この厳しさを最も要する能の世界においては危険な時が来ているように思えてならない。観る人の眼もしかり、形の美しさだけに惑わされてはいけないのではないか。能の真の美しさは姿・形だけにあるのではない。
 演る側も観る側ももっと厳しく能を見つめ、この日本の誇り得る能を確りと伝え継いでいきたいものである。

戦後の大島舞台と能楽教室の始まり  広島大島会会長 光成健男

 私は幸いにも、若い頃から謡曲を趣味としてきた。お陰様で喜寿を2年後にひかえた今なお、声も、足腰も、体調もまずまず元気である。これも一重に良き師のもとで、良き流友と共に謡曲・能楽に親しんできた賜ものと自画自賛をしている。
 私は始め西井基三師の門をたたいた。ある時の社中の会で、久見先生の枕慈童の素謡を聴いて、なんと豊かな節廻しだろうと、すっかりファンになった。その頃、久見先生は隔月上京され、宗家のもとでお稽古を積まれながら、地元福山での流勢拡充に腐心されていた。久見先生のご意見番だった西井師は社中の若者五名を久見先生のもとへ送り込まれたのである。こうして私も昭和28年秋、憧れの久見先生のもとへ弟子入りすることとなった。
 稽古仲間は井上・大山・小林・矢吹そして一番若手の私である。稽古部屋は舞台正面の見所になる広間であったが、時に、舞台裏の狭い部屋で稽古した記憶もある。そこには、敗戦後の食糧も物資も欠乏した、どん底の中からコツコツと舞台の再建をなさったご苦労の匂いが、漂っている様に思えた。
 この舞台の完成日が定かでないそうであるが、先生のお話では、まずは住居、それから稽古舞台、次は橋懸りと、逐年建増しをされた。鏡板の松は地元の日本画家、藤井松山先生にお願いしたが、昭和25年頃から2~3年は待たされた由であったから、能舞台として整ったのは昭和27~8年頃であろうか?私の知る28年の秋には、既に大島舞台は出来上がっていたように思う。
 話が前に戻るが、昭和27年5月に寿太郎25回忌追善能が行われた。私が初めて観たご宗家の舞台「鷺」であった。小柄なご宗家の真っ白な鷺が橋懸りに舞い下りた姿に会場は息を呑んだ。満場を魅了する、まさに名人の技である。
 この時、久見先生は「道成寺」を披かれた。あの鐘入り前の乱拍子、気迫に満ちた小鼓の手と、引き合うかのようなシテの足運び、緊迫漂うなかで、力強い地謡にのって「りうずにてをかけ」と間髪を入れぬ鐘入り……これまた、凄まじい迫力に感動した。先生は昭和29年4月の六平太先生文化勲章受賞祝賀能では「望月」、昭和33年10月の六平太先生人間国宝認定祝賀能では「安宅」と、続いて大曲を披かれ、福山に大島久見師ありと、その名声は日の出の勢いであったが、これらの演能はみな葦陽高校講堂の特設舞台で行われたのである。
 こうした中で先生は、念願の年4回の定期能計画を着々進められていたようである。地元はもとより、近郷の府中・尾道・三原辺りから、一人でも多くの愛好者を育てようと、高弟とともに積極的な出稽古もなさっておられた。定期能推進にあたっては、各界の名士にお願いして発起人会をつくられ、私も職場の上司にお願いして、名を連ねて頂いた記憶がある。また、定期能の名前については、異論百出・喧々諤々の末、当時、ハヤリのNHKテレビの「とんち教室」とか、「綴り方教室」にあやかって、初めての人にも馴染みやすいように「能楽教室」と命名されたのである。そして、開演前には演目の「あらすじ」「見どころ」など平易な解説をつけることも取上げられた。
 私達5人組は、久見先生の親衛隊を自認していたので、こうした打合せの時も、西井師の影から、よく雑音を挟みながら積極的に協力していたものである。当然ながら、能会ともなれば舞台・橋懸りの大きな雨戸開けや、脇正面のテント張り・腰掛けの設置など、会場設営や後片付けも進んでやっていた。
 かくして、昭和33年3月2日、定期能「喜多流能楽教室」の第1回が、念願の大島舞台で幕を開けたのである。演目は「弱法師」久見師・「船弁慶」長世師、で大変な盛会であった。久見先生のお喜びは申すに及ばず、数日後、大島家で反省・慰労会があった。その時、私がシャッターをきった懐かしい写真が見つかった。みんなニコやかで初回の成功を物語るように、いい顔をしているのでご披露に及んだ次第である。

文化は地域をつくる  福山喜多会会長 松岡 巌 (松岡病院 理事長)

 昭和48年の5月頃でしたか、大島久見先生より御電話を頂戴いたしました。内容は『先生のお父上は、大変謡いが上手でした。声は遺伝するから貴方もお稽古されると上手になると思うから、おいで下さい。何月何日の何時にお待ちしていますからいらっしゃい』ということでした。私の父松岡賢一は余程謡いがうまかったようで、久見師から直接お聞きした事ですが、父が大島先生の前で何かの曲を謡いまして、大島先生が「もう何も教えする事はありません」と云われたようです。
 私も子供の時から父や母の謡を聞かされていましたので、よく「七寳充満の宝を降らし…」とうたいながら遊んでいたのを憶えています。今までに一度だけ父の声に圧倒された事があります。父が誰かと碁を打っていた側で山姥「暇申して…」と下手に謡っていますと、突然に父が『それはこう謡うんじゃ…』と云って謡いだした声の余りにも大きくて透明で響きのよい声が私の耳を劈く程で驚いた事があります。昔は謡いも、寒稽古をしたらしく、芦田川で謡うその声は対岸まで届いたそうです。私などおよびもつかぬ声の持主でした。
 当時の医師は趣味として謡いをうたうのは至極くあたりまえの事の様でした。同じ町内の井口耳鼻科の院長夫妻は、小鼓、大鼓をそれぞれ打たれていたようでした。父も小鼓を時々打っていました。私が父の謡本で練習しているとその謡本の中に鼓の手附が赤字でキレイに記入されているのを見る事があり、父の顔が想いうかびます。
 昔、今の高野山別院の斜め前の角に木造の医師会館があり、その中の小さな講堂で仕舞や謡の会が催されていました。私が幼稚園児の頃でしょうか、母の膝に抱かれ最前列で舞嘘子を見たような記憶があります。そんな時大きな声で「ヲヒヤラリーとかなんとか叫んでいた」と母から聞かされた事があります。昔の医師は家族ぐるみで謡曲を楽しんでいたのでしょうね。父は、終戦までは自宅の二階に大きな部屋がありそこで仕舞をしたり、謡の稽古を何人かでやっておりました。羽衣の、「春霞、棚曳きにけり久堅の…」はその当時父の練習を側で聞いて憶えたものです。空襲でその家も"鼓"も全部焼けてなくなりました。父の残したものは謡本と「隅田川」「景清」の免状のみです。何年か前、私も国立能楽堂で「景清」の独吟をさせて頂きましたが、父の声に負けまいと必死で練習を致しました。
 昔は酒の席では、先ず"謡"から始まり、途中三味線で"端うた"が歌われ、最後は"都都逸"でしめくくっていたようです。それ程謡が当時の文化人には親しまれて完全に日々の生活の中に入っていたのでしょうか。最近は日本古来の伝統芸能に親しむ人の数が減って来たのでしょうか。私は決して、そうではないように思います。確かに謡、仕舞等のお稽古をされる人は少なくなったように思いますが、伝統文化として能を鑑賞される人は少なくないように思います。毎年全国津々浦々で行われる"薪能"をみればその事がよく分かります。会場は老若男女で埋め尽くされます。実際に稽古する人が少ないのは、多くの鑑賞者、愛好家へのアプローチや、情報の提供が不足しているからだと思っています。
 福山における"能文化"自体は、喜多流大島家によって継承発展され、全国へ、また世界へ(ブルガリヤ・台湾・ベトナムへ)と広がりをみせ始めています。これは偏に大島久見師・大島政允師の努力によるところが大きいと思います。しかし残念な事にこの全国に稀に見る能楽堂と能役者を擁し、素晴らしい演能の数々を披露してきた"能文化"を地域のリーダーが所謂『文化が地域をつくる』という観点からとらえてこなかった事です。
 能、茶道、陶芸、華道、建築様式、庭園、これ等は、室町時代に咲いた日本の誇るべき阿彌の文化です。福山という街は水野勝成によって城下町として発達しましたが、この街は、幸いにしてこれらの室町の文化の全てを持っており、特に喜多流の"能文化"は全国的に見ても価値ある存在として誇り得るものです。茶道も表千家、裏千家、宗箇流と、また華道も池坊、小原、閑渕流、陶芸も藤本陶津の茶陶は光っています。藤井松山、大島祥丘の日本画も秀逸です。
 ここで私からの提案があります。これらを市行政(文化課)が福山に咲いた「室町文化」としてとらえ、年に1度文化の秋に「福山室町文化祭」と銘打って福山の全ての文化施設を使って茶会、華展、美術展、演能、陶芸展、室町文化に関する有名人による講演会等を行い地域文化を全国に発信してみたらどうでしょうか。福山はそれが出来る町です。バラ祭りは終戦後のものですが、街作りはもっと福山の文化の伝統の上に築いた方がいいのではないでしょうか。
 「文化は地域をつくる」
 行政のリーダーに望みたい言葉です。

「大島能楽堂」へご一緒しませんか  福山市在住 岩本さよ子

 オペラ、コンサート、狂言、薪能等ジャンルを問わず"ライブ"で体験する、あの何ともいえない熱い瞬間が大好きな方に、こんな休日はいかがですか。あなたがどこにお住まいかわかりませんが、日本地図で岡山と広島の真ん中、JR山陽新幹線福山駅(在来線も同じ)がこの旅の始まりです。本日は広島県福山市にある大島能楽堂の「定例鑑賞能」(以下「定例能」)へご案内したく存じます。ところで私はただただお能を観るのが大好きになってしまった新米ガイドの旨お断りしてペンを進めさせて頂きます。
 日曜日の昼前、先述の福山駅から、鞆鉄バス「鞆港」行で2つ目、商工中金下車、進行方向に歩いて角を左、タバコ店を右へ曲がり、前方左手にめざす「大島能楽堂」があります。入口すぐの喫茶でお弁当やお茶、コーヒーを頂けます。初めての方は昼食をすませて来られると、開演前に能楽堂(能楽ガイダンスコーナー新設)をゆっくり見学して頂けます。当日のパンフレットを一読、いよいよ開演です。この「定例能」は、親しみやすい解説から始まります。毎回興味深いお話でこれから観るお能への期待がふくらみます。大島家三代の方々(久見・政允・輝久・衣恵)を中心に喜多流の皆様のアットホームなチームワーク、なごやかな雰囲気の一方、凛とした芸にも会えることが、あなたをご案内したい所以です。能楽を習うか、研究される方でなければ、演能中、謡本(台本)を見ないで、思いきり能の舞台に気持を集中されてはいかが舞台と見所(客席)の気分が双方のると思いがけない"お能"になるかもしれません。能一番、狂言一番で休けいになります。もし疲れてしまったら無理は禁物、先程のバスで鞆の浦(沼名前神社に秀吉ゆかりの能舞台あり)へ、或いは福山駅に戻って文化ゾーン(お城・美術館・歴史博物館―後述)を散策するのもお勧めです。お能がおもしろくなった方は、終演までゆっくりお楽しみ下さい。
 今日、能楽は全国各地で沢山上演されています。時には瀬戸内の地で歴史に想いをはせながら、各地でご活躍のシテ方、ワキ方、囃子方、狂言方の至芸に会ってみるのも一興かと存じます。宮島の厳島神社や広島アステールプラザ、岡山後楽園等で催される注目の演能も身近です。当地に暮して感じるのは、芸術全般に見事で、ご案内したい所(美術館等)も多くありますが、本日は能楽の話を中心にいたします。
 私の20代頃の楽しみは、洋楽コンサートや美術館、古社寺巡りでした。奈良に就職し、通勤コース上の興福寺薪能を少し観ていました。当時演目も何もわからないまま興にのると夢中で観ました。結婚し、仕事も忙しくなり残念ながら足が遠のきました。福山に引越して十数年になります。来てすぐ福山八幡宮の薪能に誘われ、おひとりの仕舞に感激し、プログラムで大島久見師と知りました。奈良で観た能楽のことが思い出されました。鞆での能『鞆浦』再演、喜多流能を楽しむ展覧会(福山・広島)に出かけました。ミニ講座「能を楽しむために」を聴講し、能楽って難しく考えなくても良いと思えるようになりました。
 1997年(平成9年)11月、広島県立歴史博物館(福山駅北側文化ゾーン)で小謡「草戸千軒町」(作詩・村上正名、節符・大島久見)が初演されました。これは、中世時間旅行"よみがえる草戸千軒"(能楽のルーツに遊ぶ)という催しで、連吟・大島久見・政允、舞囃子「羽衣」大島衣恵等、講演・藤原克己「能と中世」という内容でした。この頃、大島能楽堂「定例能」におっかなびっくり出かけたという次第です。野外ではなく、能楽堂でお能を観て、その第一印象はもっと早くお伺いすれば良かったの一言につきます。能楽に及腰だった私が言うのも変な具合ですが、気軽に能楽堂にぜひお出かけ下さい。年月を重ねた能楽堂の舞台に、野外の薪能と違った能楽の世界が拡がることと思います。
 世の中、不安なことも多く、心落ち着かず、暮しの心配も尽きない今日この頃です。そのような日常をしばらく忘れ、我ひとりになって能楽堂に遊ぶひととき、お能は心のビタミンかもしれないと今思っています。
 最後に大島家とご一門の皆様のおかげで、喜多流のお能に出会え、とてもうれしく思っています。本当にありがとうございました。次回の「定例能」を楽しみに、ーご一緒しませんか?