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八 島(やしま)

世阿弥 作  季‥春  所‥讃岐国(香川)八島

※ 義経の戦語りは、主に「平家物語」巻十一に基づいています。

【八島の夕暮れ】西国修行を志す都の僧(ワキ、ワキツレ)が、船旅の末、讃岐国八島(高松市の島。現在は陸続き)の浦に着くと、漁師の老人(前シテ)と漁夫(シテツレ)が、景色を愛でつつ塩屋(海水を焚いて製塩する小屋)に帰ってくる。
「月が海上に浮かび、波を漁火のように照らす。『漁翁夜西巌に傍って宿す 暁湘水を汲んで楚竹を燃く』という詩の情景も思われ、蘆を焼く火影が見え始めた。月の出とともに潮が満ち、霞の向こうから漕ぎ寄る小舟に、漁師の呼び声が里は近いと教える。万里を行く船の道は、ただ一帆の風任せ。夕暮れの空の雲の波は、月の昇るにつれて消えて、霞に浮かぶ松原の影が海に映じ、岸との境も曖昧だ。この海は九州まで続いているのだろうか。ここは八島の浦辺、漁師の家も多く、釣りに暇も無い。波の上は一面に霞んで、沖を行く小舟がほのかに見える。浦風まで長閑で、春は心が浮き立つようだ 漁翁たちは塩屋に入る。
八島1
シテ 大島輝久

 僧が宿を乞うと、漁翁は「見苦しい所」と断るが、都の人と聞いて招き入れる。
「『照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしく(勝る)ものも無し』といいますが、ここは敷く物も無い粗末な小屋で、お気の毒です。慰みに、牟礼の浦(近くの地名)にふさわしく群れる鶴をご覧なさい。きっと雲居(空、都)に帰るのでしょう。旅の方の故郷も都とは、お懐かしい。私たちも昔は‥」と、涙で声を詰まらせる。
 僧は、この浦での源平の合戦について語るよう頼む。漁翁は「私も年を経た者。見たことをお聞かせしましょう」と、語り始める。
【錣引き】元暦元年三月十八日(1184)、平家は沖一町(約109m)辺りに船を浮かべ、源氏は汀に兵を並べた。大将軍義経が、赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧を着、鐙に踏ん張り鞍に立ち上がって「後白河院の御使い、源氏の大将検非違使、五位の尉、源義経」と名乗った様の、あっぱれ大将と見えたのが、今のように思い出される。
 言葉戦いが済むと、平氏方から兵船が一艘漕ぎ寄せ、波打ち際に兵が降りて敵を待ち受けた。源氏方も五十騎ほど出て、三保谷四郎が名乗りをあげて真っ先に駆け寄ると、平家方からは悪七兵衛景清(平家の侍大将)が名乗りをあげ、三保谷と戦った。三保谷の太刀が折れ、やむなく水際に引くと、景清は追いかけて、敵の兜の錣(兜の鉢から垂らして首周りを守る物)をつかんで後ろに引いた。三保谷も逃れようと前に行くので、互いに引く力で錣がちぎれ、二人はばっと離れた。
 これを見た義経が馬を汀に寄せると、能登殿(平教経。清盛の甥の猛将)が矢を射、かばった佐藤継信(義経の腹心)が射られて落馬した。平家の船でも菊王(教経の侍童。継信の首を取ろうとして射られた)が討たれたので、共に哀れに思ったのか、両軍は陣に退いた。その後は鬨の声も絶え、波風だけが寂しく鳴っていたのだった。
【漁翁の正体】あまりに詳しいので素性を問うと「朝倉の木の丸殿でなら名乗りもしようが」と古歌を引き「潮の引く暁には、修羅の時になる。その時我が名を、名乗らずとも名乗るともよし、常の通りの浮世の夢を、覚まさないように」と、義経とほのめかして姿を消す。〈中入〉

〔間狂言‥塩屋の持ち主が来て合戦について語り、老人は義経の霊だろうと教える〕

【義経の妄執】僧は、夢に義経が現れるのを待つ。暁近く、甲冑姿の義経の霊(後シテ)が現れ、今も妄執に囚われていることを明かす。
「『落花枝に帰らず、破鏡再び照らさず』というように、死者は生き返らないが、怒りや怨みが残って魂魄が現世に帰り、自ら苦しい修羅の世界に引き寄せられる。業の深い事だ。いまだに西海の波に漂い、生死流転の海に沈んで成仏できない。戦の道を忘れられず、もとの姿でまたここに来た。弓馬の道では迷わないのに、生死の海に迷って戻ってくるのが恨めしい。深い執心の残る世で夢物語をする。去って久しい故郷へと夢路を通って来て、修羅道の有様を現すのだ」
 義経は、澄んだ月の夜空を見て昔の事を思い起こし、合戦の有様を物語る。
【弓流し】この渚で、源平は互いに矢を構え、船団を組み駒を並べて、波に打ち入って戦った。その時、どうした事か、義経が弓を海に落とした。引き潮に乗って遠くに流れていくのを、敵に弓を取られまいと、駒を泳がせて敵船近くまで追いかけた。敵はこれを見て、船を寄せて熊手に掛けて捕えようとしたが、危ういところで熊手を切り払い、弓を取り返して渚に戻って来た。
八島2
シテ 大島輝久

 すると増尾十郎兼房(義経の北の方の乳人)が「残念なお振る舞いです。渡辺で景時が言ったのもこのようなこと。(軍船の準備の際、梶原景時が義経と論争し、猪突猛進と批判した)たとえ黄金の弓だとしても、お命には代えられません」と、涙を流し申し上げた。義経は「弓を惜しんだのではない。この戦いに私欲は無いが、武名はまだ半ばだ。弓を敵に取られ、(弓の短さから推測して)『義経は小兵だ』と言われれば無念だ。これで打たれるなら運が尽きたということ、敵には渡すまいと思った。武士の名は末代まで残るのだから」と語ったので、皆感涙を流した。
智者は惑わず、勇者は恐れず」という。弓を敵に渡すまいとしたのは名誉のためで、命を惜しまず身を捨ててこそ、後世に名を留めることができるのだ。
八島3
シテ 大島輝久
【修羅道の戦い】修羅の時が来て、鬨の声や矢叫びの音が轟く。〈カケリ〉
「今日の修羅の敵は誰だ。なに、能登守教経だと。物々しい、力量は知っている。思い出す、壇ノ浦の船戦を」
 義経はその戦を繰り返す。海も山も一斉に振動し、船からは鬨の声が上がり、陸には盾が波のように並ぶ。月に照らされ剣が光り、波に兜の鋲が映じる。海と空とが混然とし、空にも雲の波が立つ。打ち合い、刺し違える船戦の駆け引きに浮き沈みするうちに、春の夜は波の上から明け始め、敵に見えたのは鴎の群れ、鬨の声に聞こえたのは浦風で、朝嵐だけを残して、全て消え失せたのだった。

(画像は、2019/06/16 大島能楽堂定期公演より)