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鑑賞の手引き 歌 占 (うたうら)

世阿弥 作   時:初夏   所:加賀国(石川県)白山の麓

越路にそびえ立ち、夏でも雪の消えることがない霊峰白山。その麓に住む里人(ワキ)が、少年(子方)を伴い、歌占(小弓に和歌を書いた短冊をいくつも結びつけ、客に一枚引かせて出てきた和歌で判じる占い)を頼もうと男(シテ)を訪ねてくる。その男は伊勢の国二見の浦から来た巫子で、占いが非常に正確だと評判なのだ。

そこへ、当人が短冊を付けた弓を肩にして現れる。老人でもないのに髪は雪のように白い。男は道行く人に歌占を勧め、何でも尋ねるよう呼びかける。
里人が、若いのに白髪なのをいぶかしむと、男は訳を話す。「私は神に暇乞いをせずに旅に出て、その神罰か頓死して三日後に生き返りました。その間地獄で苦しんだので、白髪となってしまったのです。」

里人が「北は黄に南は青く東白 西紅にそめいろの山」
と書かれた短冊を引くと、父親の病状の相談だと見抜き、歌を詳しく解く。「そめいろの山は仏説にいう須弥山(世界の中心にあり、帝釈天などが住む高山)のことで、雲を圧し、宝をちりばめた姿で大海に浮かんでいる。その南にある人間界は、須弥山の影を映しているので草木が青々としている。それで『南は青く』と詠んでいる。また、父の恩は雲を越す高山にも等しいという。よって父は山、『染め色』とは風病にかかった体色のことで、人が生きて老い、病を得て死ぬ順序を考えれば、『西紅』は命の尽きる落日の色なので重病。ただし『そめいろ』は文字では『蘇命路』となるので、蘇生して寿命が延びる望があります。」

続いて、少年は「鶯のかひごの中の時鳥 しゃが父に似てしゃが父に似ず」
を引く。父の行方を尋ねる占いだが、「鶯の字は、オウという読みが「逢う」に通じるので、すでに父親には逢っている」と解く。少年は不審がるが、男は「占いに間違いはない、時も卯月で時季に合う」と考え込む。

不意に時鳥の鳴声が聞こえる。男は沈思して「鶯の子は子、時鳥の子は子」と呟き、思うこと有りげに少年の素性を問い始め、次第に急き込むように尋ねていく。「在所は」「伊勢の二見の浦」「父の苗字は」「二見の太夫渡会の何某、別れて八年」最後に幼名を尋ね、「幸菊丸」との答えに、男は「神の引き合わせか、私こそ父」と弓を捨てわが子に駆け寄る。少年も、面変わりしているが父だと気づく。二人は時経てこの地で巡り会えたことを喜び、不思議に思う。
少年を連れて伊勢に帰ろうとすると、里人が帰国の名残に男の目にした地獄の有様を語ってくれるよう頼むので、「これをすると神懸かってうつつ無い様になってしまいますが、皆様への名残惜しみにお見せします」と、語り始める。

【無常を説く・地獄巡り】
夕月にかかる浮雲が月光を遮るごとく、死に際の妄念は死後の迷いとなる。日々はいたずらに過ぎていく。一生は夢、万事は空しい。命は水上の泡が風に吹かれてさ迷うがごとく、魂は籠の鳥の戸の開くのを待って飛び去るのに等しい。消える物は再び見えず、去る者は重ねて来ない。瞬時に消滅し離散する。恨めしくも釈迦の教えを忘れ、悲しくも閻魔王の呵責を受ける。名声や財は暮らしを助けても死は免れない。恩愛は心を悩ませるが誰でも黄泉路は避けられない。利得を求め駆け回っても得るものは罪ばかり。目を閉じて往時を思えば、旧知の人は多くが亡くなった。時事は移りゆき、全てに果てがある。或いは人が生き残り自分は逝く。誰も永遠ではいられない。

 世に安住の地は無い。天人や仙人でも死に苦しむ。ましてや下劣な果報を受けた者は重い罪のため死後も苦しみ業に悲しむ。地獄では、臼に轢かれ身を砕き血を流し、一日に何度でも死んでは生き返る。剣樹に登り刀山を踏んで手足を切り落とし、大岩に潰され炎に焼かれ、氷に閉じ込められ、鉄杖で頭を割られ足裏を焼け金で焦がす。飢えて鉄の固まりや溶けた銅を飲食しては身内が爛れる。地獄や餓鬼の苦しみは無限、畜生道修羅道の悲しみも我等には及ばない。身から出たさびなので、己が心から生まれた鬼が身を責めて、このような苦を受ける。夕月にかかる浮雲のように、妄念は死後の迷いを招くのである。

後の世の月は何とか照らすらん胸の鏡よ心濁すな(死後の世を明るく照らすには、自分の心を鏡のように濁り無く保つことだ)

語り終えると、男に神が降りてきて狂乱に至る。全身を苦しめ、白髪を乱し逆立てる様は雪が降り乱れるようで、天に叫び地に倒れて、雨や露、霰のごとく汗を飛び散らせ、足を踏み鳴らし盛んに拍子を打って、震い戦慄き舞い狂う。
やがて神におわびを申し上げる様子が見え、「神はお帰りになった」と、茫然として狂いから覚め、幸菊丸を連れて、伊勢の国へと帰っていったのだった。