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雲林院(うんりんいん)

作者不明  季:三月  所:山城国(京都)紫野

※ 伊勢物語によれば、在原業平(825~880)は藤原高子(842~910)と密かに恋をし、高子を盗み出します。その道中に渡った芥川について諸説あり、内裏にある川とも、摂津国にある川とも、架空の川とも言われます。高子は兄達に連れ戻され、後に清和天皇の女御となり、二条の后と呼ばれました。

【紫野雲林院】 摂津国蘆屋の里(兵庫県)の公光(ワキ)は、ある不思議な夢を見、従者(ワキツレ)を連れ都へと旅立つ。
花の新に開くる日 初陽潤へり 鳥の老いて帰る時 薄暮陰れる(花の開き初める日には朝の陽光が潤い、老鶯の谷に帰るころには夕暮れの空が曇る。和漢朗詠集) という詩を思わせる春の夜、蘆屋を発ち、蛭子の浦や難波津を通って、遠目には桜と雲が紛れて見えていた、雲林院(紫野にある元慶寺別院。桜の名所)に着く。
【老人との論争】公光が桜の木陰に近づき枝を折ると、老人(前シテ)が咎める。
雲林院2
シテ 大島政允
「誰だ、花を折るのは。朝の霞も消えて夕空が晴れ、ことに長閑な春の夜に、風も吹かぬのに花を散らすのは、鶯の羽風か松風か、人か。落花狼藉の人、そこを退きなさい」公光も反論する。
「花を乞うのも盗むのも風流の心ゆえ。どうせ散る花を惜しまないでください」 「嵐でさえ花だけを散らすのに、あなたは枝ごと折るのだから、風よりひどい」 「ではなぜ素性法師は『見てのみや人に語らん桜花手毎に折りて家苞にせん(見たのを語るだけでなく、花を折り土産にしよう。古今集)』と詠んだのです」「ある歌には『春風は花のあたりをよぎて吹け心づからやうつろふと見ん(春風は花の辺りを避けて吹け。花が自ら散るのかどうか見たいから。古今集)』ともあります。まことに春の夜のひと時は千金にも代え難い。無数の宝玉より大切なこの花を、折らせる訳にはいきません」「これは道理。花は物言わぬが美しいので、人の方で花を求めるのです」「漣が立つと水面に映る花影が口を動かすように見える。花も散るのを惜しんでいるのでしょう」
枝を惜しむのは次の春のため、手折るのは花を見ていない人のため。どちらも情けがあり、両者の争いは、柳と桜が色を争う、この都の春の景色のようだ。
げに枝を惜しむは又春の為 手折るは見ぬ人の為 惜しむも乞ふも情有り 二つの色の争 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なる 都ぞ春の錦なる
老人と打ち解けた公光は、ここに来た理由を語る。
【夢の告げ】公光は幼いころから伊勢物語を愛読していたが、ある夜夢を見た。花の蔭で、紅の袴を着けた女性と束帯(貴族の正装)を着た男が、伊勢物語の本を読みながら佇んでいるので、近くの老人に誰か問うと「あれこそ伊勢物語の根本在原業平中将、女性は二条の后、所は都、北山陰。紫の雲の林」と語ったと見て夢が覚めた。あまりにあらたかな夢だったので、ここまで来たのである。
【老人の正体】老人は「あなたの心に応え、伊勢物語の秘事を授けるという事でしょう。今宵はここで寝て、夢の続きを待ちなさい」と勧める。素性を問うと、「姿や年の古び様で、昔男(業平の異称)と分かりませんか。花を思う心ゆえに、木隠れの月光に現れたのです。真に昔を恋い、花の蔭に寝て私の有様を見れば、その時不審を晴らしましょう」と答え、夕空の霞のように姿を消す。〈中入〉

〔間狂言‥花見に来た北山辺の者が、業平や伊勢物語の作者について諸説を語る〕

【業平の霊】公光が月夜の花陰に伏して待っていると、艶麗な殿上人の姿をした業平の霊(後シテ)が現れ、歌を詠じる。
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして(この月も春も、昔と同じではないのか。私一人はもとのままなのに。伊勢物語)
業平は、伊勢物語の昔を語り、高子を盗み出した時のことを再現する。そもそもこの物語は、誰が何事を元に書いたのかと言われてきたのも道理である。
雲林院2
シテ 大島政允
【高子との恋路】高子は後宮で、人目を深く忍んで思いに沈み、業平も彼女を深く愛し、共にさまよい出た。如月のころ、まだ宵だが月が沈み暗い中を、恋路をたどった。この物語で名所と言われる所は、実は内裏の中にある場所だ。僧正遍照(平安初期の歌人で元慶寺の創設者)の歌にある、花の散り積もる芥川を渡り、後の事も知らず迷い進んだ。紅葉襲の衣を被り、緋の袴を踏みつけながら、女を誘い出したまめ男(色好みの男)は、指貫の裾をからげ、狩衣の袂を冠に被って忍び出た。黄昏の月も沈んで朧な夜に「降るのは春雨か、落ちるのは涙か」と、袖を払い裾を取り、とぼとぼと道をたどって迷い行ったのだった。
雲林院3
シテ 大島政允
【懐旧の舞】業平は、昔の夜宴を思い返して舞う。〈序ノ舞〉やがて月も傾き「この物語を語り尽くすことはできない。後世まで情愛を伝える物語について、かりそめながら、こうして明らかにしたのだ」と言うと、古の伊勢物語を語った一夜の夢は覚めたのだった。
 冠直衣を着けた姿は業平の面影そのままで、井戸を覗き込み、水鏡の影を見て「我ながら懐かしい」と泣く。亡霊の姿は、萎れて色を無くした花が、香りだけ残しているように幽かで、古寺の鐘がほのかに響いて夜が明けると、風音だけを残して、夢は覚めたのだった。

(画像は、2018/04/15 大島能楽堂定期公演より)