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鑑賞の手引き 朝 長 (ともなが)

作者不明  時:春、朝長の死の翌年  所:美濃国(岐阜)青墓

※ 源朝長は源義朝の次男。長男は義平、三男は頼朝。平治の乱(1159)で平家に破れ父兄弟と敗走中、青墓の宿で12月28日16歳で死去した。青墓の長者の娘延寿は義朝の愛妾で、二人の間には娘もいた。

【前場】 美濃国青墓の宿駅に、都の嵯峨清涼寺の僧(ワキ・ワキツレ)が、この地で自害した朝長の弔いのために旅してくる。
僧が墓前に着くと、数珠を持った中年の女性(前シテ)が出てくる。女は青墓の長者(宿駅の宿の主人)で、朝長が去年の冬亡くなった際の痛々しかった有様を思い出し、墓所に手を合わせる。女は七日ごとに弔いに来ている。いつもは無人の墓所で旅の僧が涙を流して弔いをしているのを見つけて、声をかける。
僧は、自分は昔朝長の養育係だった者で、戦に敗れた側の者は出家でも捕まるので、旅の修行僧に身をやつして弔いに来たと明かす。女も、一夜宿を貸した朝長の死を我が事のように感じて弔いをしていると語る。二人は、朝長と縁の深い者同士が今日ここに来合わせた不思議を感じ、まだ枯草ばかりの寂しい春の野を眺め、火葬の煙となり空に消えた亡き人を思う。
女は、僧に問われて朝長の最期の有様を語る。


【朝長の最期】 昨年の暮れの八日、夜中に乱暴に門がたたかれ、武装した人々が四、五人入ってきた。義朝父子と鎌田正清、金王丸などで、一夜を明かしたいと言うので泊め、明ければ川舟で野間の内海(愛知)に下る予定だったが、朝長は都の大崩という所で膝頭を射られて重傷を負っていた。その夜更け、人が静まってから朝長の声で「南無阿弥陀仏」と二回聞こえた。正清が様子を見てきて「朝長が切腹した」と知らせ、義朝が驚いて見ると、すでに肌衣は赤く染まっていた。抱えて訳を問うと、息も絶え絶えに「大崩で膝頭を射られて難渋し、馬に乗ってここまでは来ましたが、今は一歩も動けません。道中で敵に会えば犬死になるでしょう。先行きを見届けずこうなるのを仕様の無い者と思われるでしょうが、道中で見捨てられて雑兵の手に掛かるのはあまりに口惜しいので、ここでお別れします」と言い残してこと切れた。義朝と正清が遺体に取り付いて嘆いていた哀れさは忘れられない。

「悲しいこと、姿を求めればすでに土中の朽ちた骨となって見えるものも無く、声を尋ねれば草むらに転がる骨となって、答えるものも無い。仏に憐れみの心があるなら、亡き人の霊も憐れんでくださるでしょう」女は夕映えの空を見渡し、旅僧を伴い、野原の露を分けて宿に帰る。
しばらく滞在して供養するよう僧に頼むと、家人に世話を命じて去る。 《中入り》

〔間狂言:家人が朝長や義朝の死について語り、僧の法会を聴聞するよう触れて回る〕

【後場】
 僧は、朝長が生前特に信仰していた観世音菩薩に祈る法会をする。
静かな月の夜更けに鉦鼓や読経の声が澄み渡るころ、朝長の霊(後シテ)が武装した姿で現れ、経文を唱和し、弔いを喜ぶ。灯火に浮かび上った影のような姿を見て、僧が夢か幻かと疑うと、霊は「この世はもともと夢幻、疑いは止めて法会を続けてください」とうながし、留められない時の流れを思い、腰掛けて「昔は源氏と平家が武門として並び立ち、朝廷を守護して平和だったが、保元・平治の乱が起こり、源氏の滅びる時節が来た」と、自分の死後の一族の命運を語る。


【義朝父子のその後】 嫡子の義平は石山寺で生け捕られたのち殺され、三男の頼朝も捕らえられて都に送られた。父の義朝は野間の内海に落ち延びて、家来の長田忠致の所に身を寄せたが裏切られた。長田は主君を討ったのに、ここの女主人は一夜泊めただけでなく、弔いまでしてくれる。「全ての男女を前世・来世での父母と思え」という教えが身に沁みる。
朝長は二人の真摯な弔いに感謝し、自分の成仏は間違いないが、魂魄の一部がしばし修羅道に残って、生前と同じ戦いを繰り返して苦しんでいると言い、死に向かっていった有様を再現する。

【修羅道の苦患】 源氏の白旗、平家の赤旗が入り混じって戦うなか、朝長は運尽きて、膝頭を馬の横腹に射付けられる。しきりに跳ねる馬から降りようとするがかなわず、替えの馬に掻き乗せられて青墓に着き、雑兵に討たれるよりはと覚悟を決め、腹を一文字に掻き切る。

「そのまま修羅道に落ち、亡骸は野の土となったのです」と、重ねて弔いを頼み、姿を消す。