日吉佐阿弥 作 時:秋。夕方から夜半 所:下野国那須野原(栃木県)
※ 始めに、舞台後方に岩の作リ物が出されます。「女体」の小書(特殊演出)の場合は、後シテが通常の荒々しい獣ではなく、妖艶な女性の姿をとります。
玄翁道人(室町時代に実在した禅の高僧。ワキ)が、奥州から都への旅の途中で、下野国那須野の原を通りかかる。供の者(間狂言)が、ある大石の上で飛ぶ鳥が落ちるのを目にする。不審に思った玄翁が近寄ろうとすると、どこからか美しい女(前シテ)が現れ制止して「これは那須野の殺生石といって、生き物が触れれば命はありません。そこをお退きください」と言う。事情に通じた様子なので、玄翁は詳しい謂れを尋ねる。昔は都で鳥羽院に仕え玉藻前と呼ばれた者の魂が、今は辺地で石と化し、悪念を現して往来の者に仇をなしているという話を聞くにつけ、梟が鳴き狐の潜む荒涼とした秋の夕暮れの景色も物凄まじく感じられる。女は、更に詳しく語って聞かせる。
那須野の原に立つ石の 苔に朽ちにし跡までも 執心を残し来てまた立ち帰る草の原 物凄まじき秋風の 梟松桂の枝に鳴き連れ 狐蘭菊の花に隠れ棲む この原の時しも 物凄き秋の夕べかな
【玉藻の前の物語】玉藻の前は、出自が知れないのになぜか宮中に仕えており、化粧を凝らし美しいので、帝の寵愛が深かった。ある時その知恵を試そうと質問なさったところ、仏典から和漢の知識、詩歌管絃に至るまで何でも見事に答えたので、水底にあっても見える玉藻のように、心底まで曇りなく明らかだからと、「玉藻の前」と呼んで更に寵愛した。また、秋の末のこと、清涼殿で管絃の宴を催した際、月のまだ出ぬ宵に雲の動きも凄まじく時雨が降り、風で燈が消えてしまった。皆慌てて松明を出そうとしていると、玉藻の前の体から光が放たれ殿中を隈なく照らし、屏風の絵までくっきり見えるほど明るく輝いた。
以来、帝がご病気になった。陰陽師の安倍泰成が占い、「病は玉藻の前の仕業で、この国を滅ぼしに来た化生の物なので、調伏の祭りをするべきです」と奏上した。たちまち帝の愛情も失せ、玉藻は金毛九尾の大狐の正体を現すと、退治されて那須野の露と消えた。
女は、自分こそ玉藻の前、殺生石の魂だと明かす。玄翁が「成仏の引導を授けるので本身を現しなさい」と言うと、夜に懺悔に来ると約束して石に姿を隠す。〈中入〉
~~~ 間狂言:供の者が、玄翁に問われて玉藻の前退治の子細を語る ~~~
夜、玄翁が石に向かって引導を渡すと、中から声が響き、石が真二つに割れる。光が溢れる中に、玉藻の前に化けた妖狐の霊(後シテ)が現れ、懺悔をし、退治されたときの様を再現してみせる。
【妖狐の懺悔】天竺(インド)では、塚の神のふりをして班足太子に虐殺を行わせ、周(中国)では幽王の妃褒姒となって国を滅ぼした。本朝でもあと少しで帝の命を取れると喜んでいたが、泰成が玉藻に御幣を持たせて調伏の祈祷をしたので、苦しくなって空に飛び上がり、天駆けて海山を越え、この野に隠れ住んだ。
その後三浦介と上総介に退治の命が下り、両人は「狐は犬に似ているから」と、百日間犬を射て稽古をした。これが「犬追物」の射術の始まりである。
さて、両人は狩装束をつけ、数万騎を率いて那須野を取り囲んだ。草の根を分けて徹底的に狩られたので、どうしようもなく姿を現すと、追い立てられてたちまち射伏せられた。
「それでもなお執心が野に残り、殺生石と化して長年人命を取っていましたが、今たまたま引導を受けることができたので、これからは決して悪事をしません」と堅く約束し、妖狐は再び石に戻って消え失せる。