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鑑賞の手引き 千 寿 (せんじゅ)

金春禅竹 作  季:初夏の雨夜  所:相模国(神奈川)鎌倉

※平重衡は、奈良の諸寺との戦で東大寺・興福寺などの大火災を引き起こします。 一の谷の合戦で敗れて捕らえられ、都で引廻された後鎌倉に送られ幽閉されます。

【狩野介宗茂の館】源頼朝に仕える狩野介宗茂(ワキ)が登場、事情を語る。
 平清盛の五男重衡(シテツレ)は、囚人となって鎌倉へ送られ、宗茂の館に預けられている。重衡は父母の寵愛も一門の内での評価も並び無い優れた人物で、頼朝も「よく労われ」と仰せになり、昨日も入浴の際、千寿の前(シテ)を遣わして世話をさせた。千寿は手越の遊女宿の女主人の娘で、容姿も心も優美で殊勝なので頼朝が身近に召し使っていたのを、重衡を思いやって遣わしたのである。


今宵は雨が降り、重衡も所在無く鬱々としているので、宗茂は酒肴を勧めて慰めようとする。
そこへ、千寿が琵琶と琴を携えて訪ねてくる。「世の儚さを見るにつけても、重衡様の、宮中に仕えていたのに都落ちして船でさ迷い、ここに送られた悲しみは、いたわしいこと。降りしきる雨音を聞きながら、思いも乱れて打ちしおれ、この夕べの雨のような涙で袖を濡らしていることでしょう」と思いやる。宗茂は千寿の来たことを伝えに行く。
重衡は、栄華の短さ、命の定めなさを思って鬱々としている。自身を、胡国に長年幽閉された蘇武に引き比べ、蘇武は故郷に帰れたのに、自分は敵陣に囚われて今日明日をも知れないと打ち沈む。
千寿が参上したと聞き、重衡は対面を断り、帰るよう伝えさせる。千寿が「雨の時を慰めよとの頼朝様の仰せなのです」と言うと、宗茂はその旨を伝え、「憚られることはありません」と、千寿を呼び寄せる。
千寿が部屋の扉を開くと、御簾の奥から重衡の衣の薫物の香りが漂ってくる。優美な都人の様に恥らいつつ対面すると、重衡も千寿の心の深さを好ましく思う。


千寿(衣恵_2011.04_1)【重衡との対面】妻戸をきりりと押し開く 御簾の追風匂ひ来る 花の都人に 恥づかしながら見みえん げにや東の果てしまで 人の心の奥深き その情けこそ都なれ 花の春紅葉の秋 誰が思ひ出となりぬらん
重衡は、昨日千寿を通して頼朝に伝えさせた、出家の願い出の可否を尋ねる。「朝敵なので、一存で出家を許すことはできないそうです。私も色々と申し上げたのですが」と同情すると、「一の谷でどうとでもなるべき身が生け捕られて、都で衆人に面をさらし、東国でも恥をさらすとは、前世の報いとはいえつらいことだ。また、父の命令で仏像を滅ぼし人を殺した罪の報いを現世で受けるのは、前業よりなお恥ずかしい」と嘆く。千寿が「このような例はあなただけではありません」と慰めると「よく慰めてくださるが、この憂き身の果てに類は無い」と、都での栄華から東での幽閉へと激しく移り変わった境遇を思う。


【重衡の述懐】思へただ世は空蝉の唐衣 世は空蝉の唐衣 きつつ馴れにし妻しある 都の雲居を立離れ 遥々来ぬる旅をしぞ思ふ衰への 憂き身の果てぞ儚き 水行く川の八橋や 蜘蛛手に物を思へとは かけぬ情けのなかなかに 馴るるや恨みなるらん(伊勢物語九段、業平の東下りの文章をもとにした詞章)
慣れ親しんだ妻のいる都を離れ、はるばる旅をして衰えたわが身の果ての儚さを嘆き、深い情けをかけた訳でもない千寿と馴染んで情が移るのも、かえって物思いの種となり恨めしいとかこつ。
宗茂は、沈んだ気分を慰めようと酒を用意して酒宴を始めようとする。千寿もこれを見て御酌に立つ。重衡は盃を受け、次第に思いを通わせていく。
宗茂が座興を勧めると、千寿は詩を朗詠する。「羅綺の重衣たる 情無きことを機婦に妬む(和漢朗詠集)」これは菅原道真の作で、詠ずればそれを聴く人までも天神の守護を得るといわれている。しかし重衡が「私には今生の望みは無いので、ただ良い来世の便りとなるものが聴きたい」と望むので、「十悪といふとも引摂す(仏はどんな悪事を犯した者でも極楽に導く。和漢朗詠集)」と詠じ、琴を奏でる。


千寿(衣恵_2011.04_2)【重衡の流転】重衡は末子とはいえ、他に勝って父母の寵愛は限り無かったが、時移って平家の運命尽き、一の谷の合戦で身を捨てて戦ったものの、哀れにも敗れた。退却しようとしたが、網を張られた鯉のように生け捕られ、心ならずも都に運ばれた。南都の僧兵に渡されて殺されるでもなく、三河、遠江、足柄箱根と幾日も旅して、鎌倉に着いてつらさも極まったと思ったのに、ここにも馴れ、昔を思いながらも千寿という思い人もできた。
重衡が「燈暗うしては数行虞氏が涙(項羽と愛妃の虞氏が敵軍に囲まれ絶望する様子を詠んだ詩。和漢朗詠集)」と詠じると、千寿も「四面に楚歌の声」と続きを詠じ、思いのあまり涙をこぼしつつ、重衡の成仏の願いも込めて舞う。
忘れめや 一樹の蔭や一河の水 皆これ他生の縁(忘れはしない。どんな短い出会いも皆、前世からの縁)」と白拍子(当時流行の歌舞)を謡うと、重衡も興に乗り、琵琶を引き寄せて弾き始めたので、千寿も琴を合わせる。短い夜を共に過ごすと、うたた寝の夢も程なく覚め、東の空が白み始める。「あからさまになるといけない」と、宴を止めた重衡の心中はいたわしいことである。
翌朝、重衡を再び都に送るよう勅命が下る。武士に護送されて出発するのを、千寿は泣く泣く見送り「かえってつらい仲、早くも引き離されて」と互いに嘆く。護送されていく重衡の有様は、目も当てられないほどつらいものだった。