世阿弥 作 時:前 不定、後 春
【日向国(宮崎)桜の馬場】東国から来た人買いの商人(ワキツレ)が登場。「昨夕買った桜子という幼い子から、手紙と身の代の品を母親に届けるよう頼まれたので、急ぎ訪ねるところだ」と語る。到着して呼びかけると、中年の女性(前シテ)が出てくる。商人は詳しく説明せずに、「確かにお渡ししましたよ」と手紙を渡す。
母親が不安になって手紙を開くと、『この年月苦労なさるご様子があまり悲しいので、人商人に自分を売って、東国に行きます』と書いてある。仰天して顔を上げると、商人はすでに行方が知れない。ともかく続きを読むと、『これを出家のきっかけにしてください。ただ、返す返すもお名残惜しい』とある。「名残惜しいのなら、なぜ母と別れていくのか。独りあばら家に暮らして辛いときも、子を見れば慰められたのに。信心する木花開耶姫(このはなさくやひめ)様、御氏子の桜子を引き留めてくださいませ」母親は当地の花の女神に祈り、泣く泣く桜子を探してさ迷い出て行く。〈中入〉
【常陸国(茨城)・三年後】磯部寺の住職(ワキ)が、僧(ワキツレ)と少年(子方)を伴って桜狩にやってくる。その子は、素性が分からないものの自分を頼りにするというので師弟の契約を交わした子だった。一行は、花の名所桜川に向かう。
桜川に着くと、美しい掬い網を持った物狂いの女(後シテ)が現れ、道行く人から桜川の花が散り際だと聞いて心を乱す。「春の川水が落花を誘って、一緒に流れていくのか。『花散れる水のまにまにとめ来れば山にも春は無くなりにけり』(花の浮かぶ水の流れをたどり来てみたら、山の花は散りつくして春は終わっていたよ)という歌から思えば、少しでも休らうと花盛りを逃してしまう。花を散らす風が吹いた後は、水の無い空に花びらの白い小波が残るよう。花は雪のように散り積もり、私の深い物思いも積もって涙は川になる」女は日向の者で、愛する子を失って思い乱れ、はるばる須磨や駿河を過ぎて常陸の地まで旅してきたのだという。
女は川面の花を掬い春の形見にしようとする。逢えても面変わりして分からないのではないか、春なのだから桜子も冬籠りをやめ咲き出て来てほしい、と恋う。
住職が女の素性を尋ね、網で花びらを掬い神に祈る訳を訊くと、「故郷の神は木花開耶姫といって、御神体は桜の木です。息子はその氏子なので桜子と名付けました。神の御名も子の名も、この川の名も「桜」。懐かしい名を持つ花が散るのを、無駄にしたくないと思うのです」と答える。
僧がその奇縁に感嘆すると、女は、紀貫之が遠国にあって見たことの無い桜川に思いを馳せて詠んだ和歌を詠じ(常よりも春べになれば桜川波の花こそ間無く寄すらめ)、川瀬の波に花の浮き流れる様子に気を浮き立たせる。
にわかに山颪が吹き花を散らす。僧は惜しむが、女は「夕山風が山奥の花をこちらに誘っているのでしょう。流れ去る前に花を掬いましょう」という。確かに、梢から散る花で水面が白く埋まり、波飛沫も飛花も入り乱れ、川浪に花が咲くようである。女は山水の景を愛で、桜の和歌を織り連ねた謡に乗り舞い、花を掬う。
げにや年を経て 花の鏡となる水は 散りかかるをや 曇るといふらん まこと散りぬれば 後は芥になる花と 思ひ知る身もさていかに 我も夢なるを 花のみと見るぞ儚き されば梢よりあだに散りぬる花なれば 落ちても水の 哀れとはいさ白浪の花にのみ 馴れしも今は先立たぬ 悔いの八千度百千鳥 花に慣れ行くあだし身は 儚き程に羨まれて 霞を憐れみ 露を悲しめる心なり(長年花を映す鏡になってきた水面は、花びらの散り掛かるのを『(水鏡が)曇る』というのだろうか。花も散れば塵になるとは知る、その自分も同様に儚い。散り落ちれば水泡に帰すとも知らず花に馴れたのを何度後悔しても意味は無いけれど、儚くても憧れて心を動かす。)
あたら桜の あたら桜の 咎は散るぞ恨みなる 花も憂し風もつらし 散ればぞ誘ふ 誘へばぞ散る花蔓 かけてのみ眺めしは なお青柳の糸桜 霞の間には 樺桜 雲と見しは 三吉野の 川淀瀧つ波の 花を掬はばもし国栖魚やかからまし または桜魚と 聞くも懐かしや いづれも白妙の 花も桜も雪も波も皆がらに 掬ひ集め持ちたれども これは木々の花 まことは我が尋ぬる 桜子ぞ恋しき 我が桜子ぞ恋しき