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松 風(まつかぜ)

観阿弥 原作 世阿弥 改作  季:秋  所:摂津国(兵庫)須磨の浦

※ 在原行平(818~893)は業平の兄で歌人。三十代の一時期、須磨に流されました。

※ 始めに、舞台正面先に松の立ち木の作リ物が出される。

【須磨の浦の秋】諸国一見の僧(ワキ)が、須磨や明石の月を見ようと旅して来る。磯辺の一本松に短冊が掛けられているのを見つけ、浦人(間狂言)に謂れを尋ねる。「昔、在原行平に寵愛された松風・村雨姉妹の旧跡」と教わり、姉妹の供養を勧められる。弔ううちに日が暮れたので、海人の塩焼小屋で宿を借りることにする。(※後見が、水桶を載せた汐汲車の作リ物を目付柱近くに出す)
【汐汲みの女】二人の女(シテ、シテツレ)が現れる。汐汲みをして憂き世を渡る儚さを悲しみ、行平の和歌を引き(旅人は袂涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風)波音近く人里離れた暮らしでは友は月だけと語り、寄る辺無い身を嘆く。自分達を、浜に残った潮溜りや、捨てられ朽ちていく海藻に例える。
影恥づかしき我が姿 忍び車を引く汐の 跡に残れる溜り水 いつまで住みは果つべき 野中の草の露ならば 日影に消えも失すべきに これは磯辺に寄り藻掻く 蜑の捨草徒に 朽ち増り行く袂かな 朽ち増り行く袂かな
「松風」画像1
シテ 大島衣恵
 遠くから海人の呼び声が聞こえ、沖の漁舟や水鳥の群れ、潮風など、秋の景色が身に沁みる中、汀で海水を汲む。寄せては返す波、鶴の声、風も音を添えて、夜寒の過ごし難さを募らせる。しかし月は澄んでいる。海人も、つらい秋ばかり過ごすわけではない。水に映る月影を桶に汲むのは情趣のあることだ。
 女は桶に海水を汲み入れる。汐汲車の引き綱を持ち、陸奥の千賀の塩竃や阿漕が浦、伊勢の二見が浦などの浦尽くしを謡い、桶に月が映るのを見て喜び、車を引いて塩焼小屋に帰る。
さし来る潮を汲み分けて 見れば月こそ桶にあれ これにも月の入りたるや 嬉しやこれも月あり 月は一つ 影は 二つ 満つ潮の夜の車に月を載せて 憂しとも思はぬ汐路かなや
【塩屋での対話】女達が小屋に帰ると、僧が宿を乞う。粗末な家だからと断るが、相手が僧だと気づいて招き入れる。僧は「ここ須磨の浦では、情趣を解する人はわざとわび住まいをするものです。わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻汐たれつつ侘ぶと答へよ(もし私のことを尋ねる人がいたら、須磨の浦で潮に濡れ、しおたれて暮らしていると答えてください)と、在原行平も詠んだそうです」と言って、磯辺の松の弔いをしたことを語る。二人が泣き出したので訳を聞くと、女が答える。
「その歌人のお話が懐かしくて、この世への執心の涙が再び袖を濡らすのです」
亡き人のような言葉を不審に思って名を問うと、女は「先ほどの夕暮れ、松蔭の苔の下で亡き跡を弔われた、松風と村雨の幽霊です」と明かし、過去を語る。
【行平とのいきさつ】行平は三年ほど須磨で暮らした。退屈を慰める舟遊びの際、月明かりに潮を運ぶ海人乙女の中から、姉妹が選ばれた。時節に合った名として松風・村雨と呼ばれ、貴人に親しみ、海人の衣に替えて香を焚き染めた絹織物を着て過ごしたが、三年後、行平は都に帰った。程無くして亡くなったと聞いて、恋しい人に再会する望みが無くなり、姉妹は涙を流すしかなかった。
「不相応な恋をするのは、あまりに罪深い事です。私達の跡を弔ってください。恋の思いが乱れて心が狂い、神の助けも無く波の上に消えた憂き身なのです」
 姉の松風は、行平の残した烏帽子と狩衣を取り出し、昔を懐かしんで語る。
【恋の形見】行平は都に帰る時、形見に立烏帽子と狩衣を残していったが、これを見るたびに思いが増さり、一時も忘れられず苦しい。
「松風」画像2
シテ 大島衣恵  ツレ 狩野敬子
形見こそ今は仇なれこれ無くは忘るる時もあらましものを(形見が今は恨めしい。これさえ無ければ忘れていられる時もあるのに。伊勢物語)という歌も道理で、なおさら思いが深まる。同じ世に生きているなら望みもあるが、死んでは忘れ形見も無意味だ。とはいえ捨て置くこともできず、手に取れば面影が浮かんで、寝ても起きても恋慕の情に責められ、どうしようもなく涙に沈むのが悲しい。
忘れ形見もよし無しと 捨てても置かれず 取れば面影に立ち増さり 起き臥しわかで枕より 後より恋の責め来れば せん方涙に 臥し沈むことぞ悲しき
【行平の幻】松風は形見を抱いて泣き伏す。それを身にまとい、行平の幻を見る。
三瀬川絶えぬ涙の憂き瀬にも乱るる恋の淵はありけり(死後に渡る三途の川にも、乱れる恋心の淵はあるのだ)。ああ嬉しい、あの松蔭に行平が立って、松風と呼んでいます。さあ参りましょう」松風が行こうとすると、村雨が止める。
「そんな心のせいで、執心の罪に沈むのです。生前の狂乱をまだ忘れないのですか。あれは松です。行平はいません」松風は言い返す。「愚かな事を。あの松こそ行平です。『たとえしばらく別れても、待つと聞けば帰って来よう』と詠んだ歌を忘れたのですか」姉妹は行平の和歌を思い起こす。「一時は悲しんだとしても、いつか帰って来てくれるなら。頼もしい歌です」
「松風」画像3
シテ 大島衣恵
【恋慕の舞】松風はその歌を詠じて舞う。〈中ノ舞〉
立ち別れ因幡の山の峰に生ふる松とし聞かば今帰り来む(別れて因幡国に去っても、峰に生える松のように待っていると聞いたなら、じきに帰って来よう。行平が因幡の守として赴任した時の別れの挨拶の歌。古今和歌集)
「それは因幡の遠山の松だが、これは懐かしい人が住んだ浦の松。帰ってきたら、私も木陰で寄り添おう。懐かしいこと」松風は松に寄り添って舞う。〈破ノ舞〉
【夢の終わり】松に吹く風も狂おしく、高波が激しく打ち寄せる。松風は「夜の間、妄執を夢で見せたのです。跡を弔ってください」と僧に合掌し、別れを告げる。
波の音、山から吹き下ろす風、鶏鳴が聞こえてきて、僧の夢は跡形無く消え、夜が明けて見れば、松風の吹く音ばかり残っていたのだった。
暇申して帰る浪の音の 須磨の浦かけて 吹くや後ろの山颪 関路の鳥も声々に 夢も跡無く夜も明けて 村雨と聞きしを今朝見れば 松風ばかりや残るらん

(画像は、2019/11/17 大島能楽堂定期公演より)