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鑑賞の手引き 熊 坂 (くまさか)

作者不明  季:秋  所:美濃国(岐阜県)赤坂

熊坂(輝久_2011.9_1)【前場】都を出て東国行脚をする旅の僧(ワキ)が、美濃の国青野が原を通りかかる。
すると、僧(前シテ)が現れて呼び止め「今日はある者の命日なので、通りすがりですが、弔って行ってください」と頼む。旅僧が快諾し、誰を弔うのか聞くと、「あそこに見える、一本松の立つ小高い萱原がその者の古塚です。街道筋から外れていて、目に付かない場所です」と教えるが、誰の墓かは言わない。
 旅僧が「名も知らない者の供養とは」と困惑すると、僧は「全ての衆生は、平等に仏の功徳を受けて生死の迷界を離れますので、弔いを喜んで受けさえすれば、名乗らずとも大丈夫です。草木まで救えるのですから、『その者に』と心を向けて供養すれば、成仏できないはずがありません」と受けあう。


旅僧が庵に案内されて持仏堂に入ると、奇妙なことに、仏の絵や仏像は一つもなく、壁際に大薙刀や鉄棒などの武具がぎっしりと立て置かれている。
僧は訳を語る。「私はまだ仏道を志したばかりです。この辺りは垂井、青墓、赤坂など里は多いですが、青野が原は草深く、青墓や子安の森が茂っているので、昼間でも、特に雨の時などは、山賊や夜盗が馬の荷を奪い、里に通う下女などまで追い剥ぎに遭って、泣き叫ぶ声が耳に届いて絶えません。そんな時はこの僧も、その薙刀をつかんで『ここは任せよ』と呼びかけ、事なきを得ることもあります。この地の頼りとなれば、との一念なのです。なんとも浅ましい出家の身の上です。
僧に不似合いな腕自慢を奇妙と思われるでしょうが、弥陀の力を利剣に例え、愛染明王は弓矢を持ち、多聞天は矛で悪魔を倒して災難を払います。ですから、恩愛の執着による慈悲心は重い罪であり、衆生を救う手段としての殺生は菩薩の修行にも勝るのです。あれこれ見聞きしても是非も分からぬ身の行く末、迷うも悟るも心次第。それで『心の師となれ、心を師とするな』と昔から言うのです。
あまり語れば夜が明けてしまいますので、お休みください。私も眠ります」 と、寝室に入ると見えた瞬間に姿が消え、庵室も叢に変わり、旅僧は松の木陰で夜を明かしていたのだった。〈中入〉


〔間狂言:里人が通りかかり、昔、熊坂長範という僧形の強盗が、金売り吉次の宿を夜襲して牛若丸に返り討ちにされたが、弔う者がいないことなどを教える〕


【後場】旅僧が弔いをしていると、長範の霊(後シテ)が武装した姿で現れる。「雲が乱れ、強風が梢を騒がせる夜明け前の闇を狙って、油断無く人の宝を奪った悪事、執心の結果の、浅ましい姿をご覧ぜよ」
旅僧の求めに応じ、長範は自分の死んだ夜の出来事を再現する。


熊坂(輝久_2011.9_2)三條の吉次信高という者が、毎年都から数多の宝を馬に積んで奥州へ下るので、「これを奪おう」と決めた。諸国から集まった加勢の中でも、河内の覚乗・摺針太郎兄弟は正面攻撃では無双の者、都では三條の衛門・壬生の小猿が、焼き討ちや分け切りの上手。北国の者も加わり、加賀から来たこの熊坂をはじめ、最強の者どもが集まり、七十余名が結託して、吉次の通るいたる所に見張りを付けた。
ここ赤坂の宿こそ襲うには最高の場所、逃げ道も四方に多い。見れば、一行は宵から遊女をはべらせ、種々の遊びに興じている。
夜が更けると、吉次兄弟は前後不覚で寝入ったが、十六、七の小男で、人並み優れた眼光の者が、障子の隙間や物陰で気配がするのを警戒して起きていた。
これが牛若丸だと夢にも知らなかったのが運の尽きで、「今だ、入れ」と言う間も惜しく、我先に松明を投げ込み乱入した勢いは、災厄神も敵わないほどだ。
しかし牛若は恐れる気色も無く、小太刀を抜いて渡り合い、虎乱入・飛鳥の翔りなど戦法を駆使して戦ったので、正面から進んだ十三人が一所で切り伏せられ、他は負傷し太刀を捨て、武具を奪われ、ほうほうの体で逃げ出した。
熊坂は「これは鬼神か。盗みも命有ってこそ」と退却しかけたが「あの若造がどれほど強くても、秘術を振るい、粉々にして敵を討つ」と取って返し、薙刀を引き寄せ、戸板を盾に狙いをつけた。これを見た牛若は、間を取って待ち構えた。互いに相手が掛かってくるのを待ったが、熊坂がいらだって先に踏み込み、思い切り薙刀を突くと、牛若は前後左右に飛び越えてかわす。取り直して切り付け、空中で切り結んだのを払った拍子に飛び上がって、姿を消した。探していると、思わぬ後ろから武具の隙間を切られ「これはいかに。あんな若造に切られるとは腹が立つ」と思ったが、命運の尽きたのは無念である。
「打ち合いでは敵うまい。手づかみで捕まえよう」と腕を広げ、この廊下、この隅と追いかけたが、陽炎や稲妻のように、姿は見えても捕らえられない。
「次第に深手を負い、猛る心も、力も弱っていき、この松の根の苔の露と消えた、これが昔の物語です」と、鶏が鳴いて夜が白むと、弔いを頼んで消え失せる。