トップページ資料室鑑賞の手引き > 花筐

鑑賞の手引き 花 筐  (はながたみ)

世阿弥 作   ※筐とは、目の細かい竹篭のことです。

花筐(政允_2011.11_1)【前場:越前国(福井)味真野。夏】応神天皇の五代目の子孫、男大迹皇子に仕える男(ワキツレ)が、手紙と花篭を持って登場し、事情を語る。「昨夕、皇子が武列天皇の後継に決まり、今朝早く都へ旅立たれた。ご寵愛の照日の前(シテ)が里帰りしているので、手紙と形見の花筐を届けに行く」使者は照日の里へ向かう。

 そこへ照日が行き会って、形見を受け取り、祝福しつつも名残を惜しみ、手紙を読み上げる。
頼めただ袖触れ馴れし月影のしばし雲居に隔てありとも(慣れ親しんだ月(皇子)が雲の上(皇居)に行きしばらく隔てられても、信頼していなさい)
 照日は山里に独り残されたことを悲しみ、花筐と手紙を抱いて里に帰る。〈中入〉

【後場:大和国(奈良)玉穂。秋】即位して継体天皇(在位507~531)となった男大迹皇子(子方)は、都を玉穂に移し、優れた治世を敷いている。長月、紅葉が色づき始めたころ、官人(ワキ)を連れ輿に乗って紅葉狩りの御幸をする。
 一方、照日は皇子を恋うあまり物狂いとなり、侍女(シテツレ)を連れ都に向かう。旅人に道を聞き、物狂いと呼ばれて相手にされず、「物狂いも思う心があるから尋ねるのに」と憤る。侍女が「南へ渡る雁を道しるべにしましょう」と言うと、照日は空を渡る雁を見上げて「南の都へと、私も共に連れて行け」と心がはやる。及ばぬ恋に焦がれ、露深い野山に分け入り、はるばる旅をして玉穂に着く。

 そこへ御幸の一行が通りかかる。官人は、道にいる異様な風体の者を追い払っている。照日は都に馴れず物狂いでもあるので、心乱れつつ御前に進み出る。
 それを見た官人が、「そこをどけ」と侍女の持つ花篭を打ち落とす。女達が「君の花筐を打ち落とされた」と言うのを聞き、「『君』とは誰のことだ」と尋ねる。照日は「この君以外にありません」と、帝が応神天皇の子孫で、北国から出て継体天皇となったことを語り、「その方の花筐を恐れも無く打ち落とす人々こそ、私よりもっと物狂いです。恐ろしいこと。天罰が当たって私のように狂気となり、物狂いの仲間と言われませんよう」と責め、「花筐を落とされたくらいで愚かな恨み言をいうと思われるでしょうが、この君がまだ皇子のころ、朝ごとに花を手向けて天照大御神を礼拝しておられた面影が身に添い、その忘れ形見さえ懐かしく恋しいのです。
陸奥の安積の沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらむ(『古今集』)
この歌のように恋い続け、心乱れるのは君のため。『月の都』(都の美称)というのは名ばかりで、月(帝)を手に取ることもできない私は、まるで水に映る月を空しく欲しがる猿のようです」と、声を上げて泣き伏す。
 それを見た帝が、御前で舞い狂って見せるよう宣旨を下す。照日は「ではお姿を拝見できるだろうか」と喜び、中国漢の孝武帝が、寵愛する李夫人を喪って悲しんだ故事を謡い舞い、帝を恋い慕う思いを込める。

花筐(政允_2011.11_2) 【武帝と李夫人の故事】武帝は李夫人との死別を嘆いて政も疎かになり、夜も泣いてばかりいた。また、夫人は病で艶やかな容姿が衰えたのを恥じ、帝に姿を見せないまま死んだので、帝は深く嘆き、夫人の姿を甘泉殿の壁に描いてそば を離れなかったが、思いが増さるばかりで言葉を交わせないのを嘆いていた。すると李少という太子が、「李夫人はもともと天上界の仙女で、いったん人間として生まれましたが、また仙境に帰ったのです」と教えたので、泰山府君(生死を司る神)に願って李夫人の面影を招き寄せようと、奥まった寝室で反魄香(死者の霊魂を呼び寄せられるという香)を焚いた。
夜更けて人々も寝静まり、風が冷え冷えと吹き月の明るいころ、夫人の面影が有るか無きかにちらちらと現れた。さらに思いが募ったが、その姿は触れることもできないまま、ぼんやりと薄れて消えてしまった。帝は悲しみのあまり、夫人の暮らした甘泉殿を去れず、遺品の寝具を敷いて独り床に就くのだった。

舞い終えると、花筐を奉るよう宣旨が下る。照日は胸がいっぱいになり、上の空で恥らいつつ花筐を差し出す。帝は、間違いなく自分の愛用していた花筐と認め、「恨みを忘れて狂気を止めよ。もとのように召し使おう」と告げる。
思えば、帝が即位し正しい御世になったのも照日が正気に返ったのも、花筐を大切にしたおかげなので、その名を留めて、この時から恋しい人の愛用した物を「かたみ」と呼ぶようになったのである。
照日は帝の情け深い心に感謝し、二人の仲が尽きないことを喜んで、紅葉の散り飛ぶ中、御幸の一行と共に玉穂の宮に帰っていく。