世阿弥 作 時:源平の合戦から数年後。夕方から夜半
所:摂津国一の谷(兵庫県の須磨の浦の付近)
源平の合戦で源氏方の武将として活躍した熊谷次郎直実は、その後出家して蓮生法師(ワキ)と名乗っている。一の谷の合戦で平敦盛(平清盛の甥。十六歳で討死)を手にかけ、余りにいたわしく感じて供養をしようと出家したのだった。
蓮生は、敦盛を弔うため一の谷の戦場跡に旅をする。海辺で戦の有様を思い起こし、念仏を唱えていると、夕間暮れに、高台の野原から風に乗って笛の音が聞こえてくる。
笛の主を確かめようと待っていると、草刈の若者達(前シテ・ツレ)が仕事を終えて帰ってくるのに出会う。草刈男達は、山と浦とを行き来する生業を侘び、訪う人も無い孤独な暮らしを嘆く。笛を吹いていたのは彼らの内の者で、蓮生が卑しい身にそぐわぬ風雅な嗜みだと感嘆すると、若者は「そぐわないと仰いますが、『我が身に優る者も羨むな、劣る者も卑しむな』という言葉もあります。それに、『樵歌牧笛』といって、草刈の笛や木こりの歌は、歌人にも詠まれて有名なのですよ」と答える。そして、歌も舞いも音曲も、技芸はそれを好む人の心次第と語り、古今の優れた笛の銘を挙げてみせる。その間に、他の者達は帰っていく。
身の業は 好ける心により竹の 小枝・蝉折れ様々に 笛の名は多けれども 草刈の吹く笛なればこれも名は 青葉の笛と思し召せ 住吉の汀ならば高麗笛にやあるべき これは須磨の塩木の 海人の焚きさしと思し召せ(下線 名笛の名)
なぜ一人だけ残ったのか尋ねると、「あなたの念仏の声を頼りに来たのです」と言って供養を頼む。素性を聞くと、敦盛のゆかりの者と答えるので、蓮生も親しみを覚え、声を合わせ念仏を唱える。やがて、若者は、蓮生の毎日の弔いに感謝し、「名乗らずとも、あなたが明け暮れに供養してくださっている名前をご覧ください」と告げて、かき消すようにいなくなる。〈中入〉
〔間狂言:所の者が出てきて、蓮生に乞われ敦盛の最期の有様を物語る。平家が海に敗走する際、敦盛が愛用の笛小枝を取りに戻って舟に乗り遅れ、渚で直実と戦って首を取られたことなどを語り、僧の素性を知り驚いて敦盛の供養を勧める。〕
その夜、敦盛の霊(後シテ)が甲冑を着けた若武者の姿で現れ、現世での罪による死後の報いを晴らしにきた、と言う。しかし、蓮生の供養で罪も消え成仏する機会を得、かつての敵が仏法を求める友となったことを喜び、懺悔の物語を始める。一門の栄華が槿の花のように儚く、生が火花のごとく短いものだと気づきもせずに奢り高ぶっていたことを悔い、寿永の年の秋に都を落ち延びてから流浪の旅を続け、翌年の春一の谷に立て籠もり、須磨の浦辺で侘び住まいをしたことなどを語る。
然るに平家 世を取って二十余年 真に一昔の過ぐるは夢の内なれや 寿永の秋の葉の 四方の嵐に誘はれ 散り散りになる一葉の 舟に浮き波に臥して夢にだにも帰らず
籠鳥の雲を恋ひ 帰雁列を乱るなる 空定め無き旅衣 日も重なりて年波の 立帰る春の頃 この一の谷に籠もりて 暫しはここに須磨の浦
後ろの山風吹き落ちて 野も冴え返る海際の 舟の夜と無く昼と無き 千鳥の声も我が袖も波に凋るる磯枕 海人の苫屋に共寝して 須磨人にのみ磯馴れ松の 立つるや薄煙 柴といふもの折敷きて 思ひを須磨の山里の かかる処に住まひして 須磨人となり果つる 一門の果てぞ悲しき
続いて、合戦前夜、最期の名残にと一族が集まった宴で、今様や詩歌を歌い、舞を舞ったことを追懐する。蓮生も、源氏の陣まで素晴しい笛の音が聞こえてきたことを回想する。やがて敦盛は、その夜のままに舞い始める。
舞いが終わると、一転して最期の戦いの有様を繰り返す。平家一門は安徳天皇をはじめ皆舟に乗って海上に逃れたので、敦盛も急いで水際に向かったが、舟はすでに遥か沖に出てしまっていた。駒を止めて呆然としているところへ、直実が追ってきたので、敦盛も馬を引き返し太刀を抜いて応戦し、馬上で組み合って、波打ち際に落ち重なり遂に討たれてしまう。
「ここでまためぐり合い、仇敵を討とうと思ったけれど、あだを恩に変えて弔いをしてくださるおかげで、最後には成仏してあなたと同じ蓮の花の上に生まれ変わることができるでしょう。敵などではありませんでした。どうぞ跡を弔ってください」と、太刀を捨て手を合わせると、敦盛の霊は姿を消したのだった。