私の青春 ~能には果てあるべからず~  大島衣恵(福山JC2009年度理事長)

2009年1月15日発行 福山商工会議所所報 「商工ふくやま」531号

 私は大学時代の4年間、上野の東京藝術大学に通いました。あらゆる芸術を志す学生が集うキャンパスで、沢山の刺激を受けた非常に面白い学生生活でした。
 私の専攻は音楽学部邦楽科・能楽囃子。大学の専科に喜多流がなかったため小鼓の専攻生として在籍しましたが、そのことでかえって能楽全般を学ぶことができました。
 特に芸大寮で生活した3年間は、私にとってかけがえのない日々となりました。美術や洋楽専攻の学生との日々の交流の中で、自身が専攻する「能」とは何か?芸術としての「能」が目指すところは一体どこにあるのか?改めて考えることになったのです。
 能をはじめ日本の伝統文化の指導法は、理論よりも身体を通した実践の上に成り立っています。表現の意味や注釈は身体技術を完全に習得した先に付いてくる、というのが基本で、個人の思考は伝統に及ばないという、歴史に裏づけされた揺るぎない信念あってこそ成立する考え方です。
 しかしながら大学時代に交流した声楽家、器楽科の人々の話を聞くにつけ、理論に基づいたアカデミックな西洋音楽の指導法に学ぶべきことがあると感じました。西洋音楽が全世界に普及し、日本においても素晴らしい演奏家が育っていることを考えれば当然のことですが、能楽の伝授のあり方も、時代により工夫を重ねるべきことを実感いたしました。
 またある友人から「能の表現は空気のうねりを生み出そうとしている」との指摘を受けたことも、忘れがたい思い出です。単純簡素を極めた能の動きが、空気のうねりとなって心の波動、すなわち感動を生み出すのだと。まさに目から鱗が落ちる思いでした。
 その上で、西洋の声楽も能の謡も、器楽も邦楽の囃子も、ダンスも舞も、人の肉体が何かを表現する芸術に、国や人種、性差の別のないことを確信した4年間だったと思います。
 能の創始者世阿弥も、停滞を戒める言葉を残しています。根幹の精神は大切にしながらも、時代に応じた創意工夫を重ねて変化し続けることが、真の伝統となるのです。
  「命には終りあり、能には果てあるべからず」
 個を越えた永久の可能性に希望を抱いて、あらゆる活動に当ってまいります。
 本年も皆様のご指導ご鞭撻を心よりお願い申し上げます。