私が嫁ぎました大島家のご先祖は阿部家に仕える福山藩士でしたが、明治維新後、能の師匠の家が途絶えたため、曾祖父の大島七太郎が十四世宗家喜多六平太師に師事し、備後一円に能を普及させ今日に至っています。
福山の地で個人での能楽堂を持ち、定期公演を年に4回と社中の発表会を年3回、その他、各地での演能普及活動や学校での能学習を行い、海外での能公演にもたびたび出かけています。私の夫、大島政允が四代目、息子の輝久が五代目になります。福山市は現在、放映されているNHKの大河ドラマ「篤姫」の中で、幕末に活躍した温厚な老中筆頭、阿部正弘公でやっと全国に認知されたようです。
結婚して暫くした頃、義父の大島久見が古めかしい手書きの綴り帳を見せてくれました。薄い和紙に毛筆で丁寧に大島家の家系図、ご先祖のこと、家族のこと、演能記録、稽古日誌等が書いてあります。
その綴り帳の筆者、大島寿太郎(明治4年~昭和4年)は大島七太郎の長男で、十四世宗家に懇望され、尋常小学校校長の職を辞して能の道一筋に進み、大正3年に福山に能舞台を建てて演能普及活動をした人です。丁寧に細かな字でぎっしりと書かれた行間から祖父寿太郎の能と家族にかけた熱い思いが伝わってきます。
その中には遠地の鹿児島での演能記録も記されています。『大正六年十月二十日、鹿児島市中座内ニ舞台ヲ作リ催能ス 小鍛冶 友枝敏樹 鞍馬天狗 寿太郎 子方 厚民 羽衣舞込 寿太郎 黒塚 崎山龍太郎 船弁慶 圭一郎 子方 厚民』(圭一郎氏は寿太郎の弟で西日本文化協会会長・大島淳司氏の父君。三役の名も記してありますが、ここでは省略いたします。)
そして、その綴り帳は遠くに嫁がせた長女君枝をお産で亡くした深い悲しみを記した文で絶筆になっています。祖父は志半ば59歳で亡くなりました。その時、長男の厚民(夫の実父)はまだ大学生、三男の久見(義父)は中学生でした。
義父久見は三男でしたが、その後喜多宗家の内弟子修業を経て能の家大島家を再興した人です。祖父の建てた能舞台は昭和20年の福山空襲で焼失しましたが、久見父はいち早く東京から帰り、焼け野原に能舞台を建て演能普及活動を始めました。昭和46年には三階建てのビルを建てその中に劇場型の能楽堂を作りました。私が嫁ぐ1年半前のことです。
私の里の父と久見父が地元の誠之館中学校の同級生で無二の親友でした。里の両親も私たち五人姉妹も大島に稽古に通っていましたので、その延長で私はお嫁に来たのかもしれませんが・・・
私は嫁ぐ前に大学卒業後、東京の出版社で児童図書の編集者として3年半ほど働いていました。情報の収集発信をする最先端の現場から、伝統ある能の家の中へ、その落差に何度も苦しみました。
そして、4人の子たちを次々と東京の大学に送り、子育てに費やしていた時間をさて何に使おうかと考えた時、祖父寿太郎の綴り帳を思い出したのです。かっての編集者としての経験をもとに大島家のためにも能楽界のためにもなるかもしれない『能おおしま草紙』を発行することにいたしました。創刊号が2000年の4月、年2回発行でこの秋18号を発行しました。
700年もの間受け継がれてきた日本の伝統文化、能はこれからどのように受け継がれていくのでしょうか。世阿弥の言葉の中に『家々にあらず、継ぐをもって家とす。人人にあらず、知るをもて人とす。』とありますが、この言葉の意味は現在、能にかかわっている私たちにとても重くのしかかってきます。
日々の活動の中で、そんな不安に駆られる私たちにとって、娘たちが能の授業をさせていただいている岡山市の小学校6年生の後楽園能舞台での発表会を見学してくださった元校長先生のお手紙は私たちを元気づけてくれます。その一文を記してみましょう。
『発表会、大変お世話になりました。良いお日和の中の大成功、子どもたちの何よりの宝物になったと存じます、厚く御礼を申し上げます。』『これが十年も続いたらすごいこと! 子どもたちの教育にこれに勝るものはない。戦後自由自由で日本文化も型も捨ててきたが、これこそ見直すべきものが能楽の中にある。目の輝き! 姿勢! 背筋が立つ! すべて人が人となる元がある。学力の見直しとかこの頃あわてて唱えられているが、目先のことよりまず大切なことがある。それが大島先生方のお力でできていることに感謝しています。』
『家々にあらず、継ぐをもって家とす。』の言葉を肝に銘じ、大島家のご先祖に感謝して日々を暮らそうと思う今日この頃です。