森田流笛方 帆足正規氏 ご寄稿によるページです。
1931(昭和6)年 東京生れ 高校の頃から宝生流 高橋 進 師に就く 1950(昭和25)年 京都大学文学部入学、哲学科美学美術史専攻 大学2回生の時、森田流 貞光義次 師に就く 1960(昭和35)年 能楽協会入会、笛方となる 1982(昭和57)年 日本能楽会会員となる 舞台で笛方を勤めるかたわら、 新作狂言「死神」「維盛」「はらべ山」等を書く 平成12年5月、新作能「鞆のむろの木」書きおろし |
読売新聞(08/12/16) |
27 妻失った悲しみ深く(広島県福山市) → |
上演当日配布のパンフレットに掲載
「鞆のむろの木」は、万葉集巻三の大伴旅人の歌によって書いたものです。共に賞でたむろの木に寄せて、亡妻を思う旅人の心が、ひしひしと伝わって来る歌です。連立って、一つの美しいものを見、同じ感動を語り合える人を失った悲しみをこの能でも中心に置きました。
私には、万葉集について深い思い入れがあります。私の母は十九才の時に女子専門学校の国文科を中退させられて、私の父の所に嫁いで来ました。見合い結婚でしたから、父の趣味など何もわかりません。文学少女であった母は、学校をやめるのがいやで、押入れに入って泣いていたそうです。そしてお小遣いを貯めてやっと買った、橘千蔭の「万葉集略解」を友達にやってしまって嫁に来たのでした。そうすることで文学をあきらめ、嫁に行くふんぎりをつけたのだと思います。
嫁に行ったら歌などはやっていられないと思って来て見ると、その全く同じ「万葉集略解」全六巻が父の書架にありました,。その時の嬉しさと言ったら無かったと後々まで母は話して居りました。父は働きながら大学の専門部(夜間)を出た安サラリーマンで、文学への思いはありながら果せずにいたものの、歌だけは続け「アララギ」に投稿したりしていました。結婚して15年、父と母は貧しい中で万葉を語り、歌を詠んで、心だけはたしかに豊かに暮していました。
その幸せが打ちくだかれたのが、1945(昭和20)年、8月6日、敗戦のわずか10日前です。最後の阪神大空襲で母と妹が爆死しました。家も全焼でした。配給されたかますで、母と妹を一緒に包み、縄でくくって焼きました。河原の月見草をその上にのせたのが唯一のお供えでした。
私は焼け残った古本屋を回って、「万葉集略解」をさがし歩きました。父と母の心を結びつけたその本を何としても手に入れたかったのです。幸それは、すぐ見っかり、今も大切に持っています。残された父の歌に、亡くなった母への思いがせつなくこめられています。この父の思いと、旅人の思いとが私の内でどうしても重なってしまうのです。
戦後、私は能に出会い、それに引かれ、とうとう笛吹きになってしまいました。その出会いが「求塚」という、万葉にもとづいた能であったのも母の導きなのかと思ったりしています。
備後福山周辺の題材で能を書くように、とのお話があった時、先ず旅人の歌が浮かびました。そして鞆という土地も申し分ありませんでした。前から好きな所で、何度か尋ねていましたが、「鞆のむろの木」を書くことになってからは、しばしば足を運び、所の方々とも親しくしていただくようになりました。旅人も舟路の途次、この土地の人々の厚い情にふれたものでしょうか。
当初、福山又は鞆で上演するためと聞いていましたので、ワキを菅茶山としたのですが、東京で初演することになり、無名の人の方が良かったかなと思わないでもありません。しかし、茶山の詩や、歌を方々に使ったこともあり、又近世最高の漢詩人と評価され、頼山陽の師として名高い人ですから一役買ってもらうのも良いだろうと思っています。
「能の新作を、古典の様式で書くなら、井筒のような名作に叶う筈がありません。又、新しい様式を取るにしても、その様式を取らねばならぬ芸術的必然性が湧いて来ない限り、単なる物珍らしさに終るでしょう。」
というのが新作能を書かないかと言われた時の私の決まり文句でした。これは半ば本音であり、半ば不精者の言いわけです。この不精者に書く気を起こさせたのは、大島政允氏夫人の泰子さんです。名マネージャーであり、人をその気にさせる事の大変上手な方で、いつも気分よくのせられてしまいます。今はこういう機会を作って下さったことに感謝しています。
書き始めて見ると、やはり身にしみついた能本来の様式になりました。叶わぬまでも、古典に一度立向って見ようと思った次第です。試演をして見て、嬉しかったことは、普通の能になったな、という事でした。福山での記者会見で、新作について
「何か斬新なことをされますか」
と聞かれた大島政允さんが
「あまり斬新なことはしたくないんです」
と答えられたそうです。シテと書き手の気持が一致して、それを他の各役の方々にも汲み取っていただけたことを大変幸せに思います。
『能 おおしま草紙』第2号に掲載
能を見始めた昭和二十二年頃から、喜多流の会にもよく出かけた。宝生流の野口兼資先生の能に引かれて能に熱中するようになった私は、喜多流の能に対しては当初、あまり素直な観客ではなかった。何もしない能、技というものを否定したような宝生の能に対して、喜多の能はその対極にあるものだった。
六平太先生(十四世)の能を見る前には、先ず「今日はだまされないぞ」と思ったものだ。喜多実先生が「おやじの芸はまやかしだ」と言っておられたそうだが、高校生の私も何もわからないながら同じように思っていたのかも知れない。しかし、舞台が進むにつれて見る前の決意はいつの間にか消えてしまい、見終ると思わず溜息をついて「やられた」と言うのが常だった。蝉丸では、あの背の低い体に緋の長袴はいかにも釣合いが取れず、面も大きすぎて不格好で、異形にさえ見えたものが、舞っている間にそんな事は忘れ果て只酔わされていた。松風では脇正のかまち一杯に置かれた塩汲車の前で、左手で右の袂を押さえるようにして舞台のずっと下までさっと手を伸ばして汲んだ形に「あっ」と声が出そうになった。
こうやって何度も叩きのめされるうちに、能という芸の広さ、大きさを実感し、同時に自分の先入観の愚かさを知らされた。又、無芸を磨きぬいて至った能と、技を磨きぬいて深められた能とが究極の境地で通ずることを悟ることが出来た。このことは、1ケ月程の間に見ることの出来た六平太、兼資両師の鷺で更に思いを深くした。
ところで、もう何年も前から能の流儀による芸質の差が少なくなって来たように思う。例えば宝生流では、私の師匠だった高橋進先生のような豪快な謡は影をひそめて、繊細な謡が主流になっている。喜多流でも、独特の喉の奥でかすれるような力の要る発声がだんだん聞かれなくなって来た。いつだったか、復曲の「舞車」で観世流の浅見真州さんと共演した友枝昭世さんに、立合いのように芸質の差を意識したかどうか尋ねたことがある。答は、意識もしなかったし、違和感もなかったということだった。一曲の能としてのまとまりはよかったと思うが、一方、このような所から流儀の特色がうすれて行くことはないだろうかと気になった。それは流儀の芸質というものがその流儀の能の芯になるものだと思うからだ。六平太先生の能も、この芯の上に六平太先生の作られたものだと思う。伝承されるべきものは、個々の型、技、以上に、この芯になるものが重要である筈だ。この伝承の上に立って技が磨かれ、個性が開花すれば真に魅力のある舞台になる。
私は福山に来て、喜多流の能を勤めると、緊張による疲れと自分の未熟さに対する反省はつらいものの、一方では心豊かに帰ることが出来る。それは、名人六平太先生が舞台の上に生きているように思えるからだ。昔、高校生の私を叩きのめし、能の真髄を見せつけてくれた芸が、理想的な姿で伝承されているからだ。
大島久見先生の能を勤めさせていただいていると、笛座から見る後姿にも六平太先生がありありと見える。そして、その上にちがうもの――大島久見先生そのものも見える。景清などその両方を最も強く感じた。喜多流の持つ強い芯の上に六平太先生の作り上げたものを大島先生に伝えられ、大島先生は、その上に磨きをかけられ御自分の能を作り出された。そして今、政允さん輝久さん衣恵さんはもとより、先生を慕って集る喜多流の皆さんに伝承されつつあることを舞台でたしかめることの出来る喜びをかみしめている。
六平太先生が福山の舞台に生きている、と書いた。ただ似ている、というのではないこともわかっていただけたと思う。それにしても、「近頃大島先生は六平太先生に似て来たなア、頭の格好までも……」これは5月に福山での長田駿さんとの話。
皆さんも何度かお聞きになっているでしょう。人を能に誘った時によく聞く
「能はむずかしい、わからない」
という返事です。もしかすると、皆さん自身もそう思っていらしゃるかも知れません。しかし、これは大変な誤解です。
先ず、全ての芸術について、それは「わかる」ためにあるのではない、ということをわかって下さい。「わかる」というのは、物事を頭で考えて、理屈を追って、導き出した結果に納得する事です。つまり論理の世界です。「わかる」を「理解」に置き代えればもっとはっきりするでしょう。芸術というものは、理解するものではなく、感じるもの、味わうもの、純粋に感性の世界にあるものです。
そこで、能の話になりますが、能を味わうのは少しも「むずかしい」ことではありません。たヾ、一般の演劇に対するのと、少しばかり違つた向き合い方が求められると言ったら良いのでしょうか。
能という演劇の特質を、端的に、しかも的確に表現した言葉があります。駐日大使でもあった、フランスの詩人ポール・クローデルの書いたものです。
「一般の演劇では、何事かが起る。能では、何者かが現われる。」
というものです。
普通の芝居では、主題は事件ですが、能では出て来る人物――神や、花の精や、妖怪などもふくめて――そのものが主題だというのです。そして、その人物の本質、存在感といったもの、アイデンティティーと言った方がわかり易いのでしようか、それが主題であり、ほとんどそれたけで一曲が成り立っているといっても良いと思います。外面よりも内面、シテの心が主題なのです。その心をそのまヽ、こちらの心で受取る。感じ取るのが能を観ることなのです。
このように書いてくると、何か七面倒臭いように思われるかも知れませんが、そうでない事は、例を上げれば明らかになります。子を失った母を扱った曲がいくつかあります。その母の悲しみだけでほとんど全編が出来上がっています。その悲しみは、ある時は相手の言葉に反応し、ある時は風景に触発されて強く湧き上ります。その悲しみは、舞う人の動きから、又動かぬ体から、じわっと観客に伝わって来ます。何も考える必要はありません。あらかじめ、その曲のあらすじ程度を知って置けば、あとは、何も考えずに、全神経を舞台に、特に主人公であるシテに集中するだけのことです。
むしろ、考えることはやめた方が良い。能の本文を、詩として味わうほどに読み込んでいるならともかく、意味がわからないからと文章を見て考えても、掛け言葉や縁語でつづられたそれは、頭をさらに混乱させるばかりです。そのひまに、舞台の微妙な動きを見落してしまうことも勿論ですが。
もう一度、ポール・クローデルに戻ります。「一般の演劇では、何事かが起る。」もう少し丁寧に言えば、先ず事件の発端があつて、紆余曲折の展開があり、結末に到ります。観客は、頭でその筋書きを追う必要があります。味わう前提として、「わかる」段階が必要なのです。時には思想的なもの、哲学的なものまであり、そういう劇こそ難解――むずかしい、わからない、と思われてもおかしくありません。能が、このような難解な演劇ではないことを納得いたヾけると思います。能にも、多少ストーリー性の高いものもありますが、比較するまでもなくずっと単純ですし、芸術性の高い能ほど、ストーリー性が希簿だと、概して言うことが出来ます。
能を観るについて、知識や教養が必要ではないか、ということも良く聞く言葉です。一般的に言って、知識がある方が、より興味深く観ることが出来るとは思います。しかし、それは、能を味わう上での必要条件では決してありません。
一枚の歴史画を見るとします。そこに描かれた場面の歴史上の意義や、人物の名前までわかっていれば、より興味深いことはたしかです。しかし、それはその絵そのものではなく、その絵に付随した興味なのです。その絵について豊かな知識を持つていながら、何の感動も覚えない人と、少しの知識を持たなくても、その絵に深い感動を覚える人と、どちらが芸術的に高いかは言うまでもないでしよう。又時には、知識が感性を曇らせてしまうこともないことではありません。
これまで書いて来たように、能は、誰でも持っている感性を舞台に集中しさえすれば、ほとんど考えることなしに味わうことの出来る演劇です。「むずかしい」「わからない」という先入観を取り払って、安心して観におでかけ下さい。又自信を持って人にお勧め下さい。