思い出草(大島師に呈す)  藤井松山

「能楽教室だより」第7号に掲載 1960(S35)年3月

藤井松山
明治13年(1880)~昭和42年(1967) 享年88歳
福山桶屋町(現・城見町)生まれ。
幼少の頃、藤井松林の手ほどきを受ける。
明治32年誠之館中学校を卒業し、翌年京都の鈴木松年の門に入り画を学び、松山と号す。
能楽を大島七太郎門下でたしなみ、大島寿太郎・大島久見の大島3代に師事する。
大正3年建設の大島舞台、昭和25、6年再建の大島舞台の鏡板(大島家稽古場に移築し現存)を画く。

 先日はご来訪下さいまして、いろいろ面白いお話を承わり有難う御座いました。その時「おもいぐさ」の事が出ましたですな。雲雀山の後シテの出で謡う一声の所の「残しやするとおもいぐさ、いろいろの」を、あの後で微吟して居ますと、美しい花束を担いでスミを取って左へまわるシテのカケリの姿が、彷彿として目に浮びます。当地では他流は知りませぬが、喜多流のこの曲は小幡さんが演奏されて以来まだ拝見した事が御座いません。あまり遠い能とも思いませんが不思譲ですな。あの謡の文句の中には、かほよ花、忍ぷぐさ、深見ぐさ、かはよ鳥、呼子鳥ナドいろいろの花、鳥の名が出て来ます。あたかも萬葉植物園を彷彿しているような気持がいたしました。可愛いゝお姫様の子方が作り物の中に坐っておられる。ワキは腰桶にかゝり、シテは脱ギカケ姿で出て、いろいろ謡い、舞い、情あり、景あり、長からず、短かからず、重からず、軽からず、格好の曲だと思います。能楽教室へお出しになっては如何と、いらぬ事まで考えるのでした。
 さて、この間の御催しにつき何か愚感を書けとのことでしたが、折ふし耳は謡がきゝ取れぬ程、目はやゝ乱視に傾き、又双方別条なくても今度のような大曲は、感ずる所はあっても、それは恐らく肯綮を外れていることと思います。丁度、六近堂きんから葉書が届きました。その一節に「景清は大物なのでしようが、枯淡でシブくて、我々シロウトにはわかりません、云々」私も同感で、評語めいた事は一語も述ぺ得ぺきでないと思います。そこで、只今申し上げました「思いぐさ」ならぬ「思い出草」を書くことにさせて戴きま。が、これは我面白の相手迷惑で老の繰言たる事を免れませんが、お許しを願い上げます。さて福山に於いて同曲を拝見しましたのは、老先生が七十賀の催しの時舞われたのが最初で、明治40年前後、ざっと50年程前で、舞台に居られた方々の中では、宗家先生が今日なお矍鑠として斯界に君臨されて居られる事は欣賀にたえませんが、他は大方物故されたのではないかと存じます。次いで、新馬場の舞台と葦陽高校に於ける宗家のを2度、それから今度の貴方の演奏と、以上4度であろうと思います。この中最初と2度目の時、或る2人から、それは其の一人は中年寄の婦人で、あまり能を見ない人、今一人は相当の老人で、10年余り謡をして居た人でしたが、同じようにわけわからずに涙がトメドもなく流れたことを告げました。目に立つほどの技巧を用いずして、よく人む感動せしむ。カがある能というものはかくあぎぺきものなのであろうと思います。-中略-
 一寸ここで先日の御能についての印象を申上ますれば、先づ作物の引廻しが上からおもむろに取り払わるるに従い、沙門帽子、水衣、厚板、大口、立てかけられた杖と次ぎ次ぎに現われ、そこに少し前かがみにつっかかったシテが見えて来ます。老いさらばいて如何にも髄骨と衰えては居りますが、昔乍らの欝勃たる意気は自ら蔽うぺからざるものの如くに感ぜられます。それから曲の進行につれて、心境の変化は複雑であり、前文に記す如く桔淡で渋くて、むづかしいものでありましょう。シテの装束の色合など流儀の定めや、個人の好みやで色々相違もあるかも知れませんが、最初の時の茶を除いて、後は皆黒でこざいました。
 この曲の作者は元清と承わっで居りますが、その作曲の才も驚くぺきものですが、最初にその面を打った人の創意にも敬服せざるを得ません。
 私事に亘つて恐れ入りますが、ひと頃クロスワードパズルの流行った頃、雑誌「喜多」にも題を出された事がありました。応答を試みてマグレアタリに中った御褒美とあって、松野奏風画伯の能画「景清」の色紙をいたゞきました。この絵のシテが頗る背の高かったのは梅津さんの舞台姿を描かれたのではありますまいか。これも思い出草の一つといえぱいえます事でしょう。
 次に杜若は、随分諸流のを、殊に観世のはいろいろ小書付のをも見ました。いつも優に美しく、爽やかに、のぴのぴと心地よくあったのを思い出します。この曲には此曲相当の急所もあることでありましょうが、それは門外漢の知るところではあリますまいと思います。先日のは殊に面白く、別して僑がかりにくつろぎてからの型を、より美しく拝見しました。その印象は謡の文句の如く、「シラジラと明くる東雲の浅紫の」空の如く、あざやかなものでした。この能について、いとも苦しき思い出が一つあります。それは例の鞆の神能の時の事で、何といっても8月4、5日頃の炎天にこの曲が出て、序の舞もハシ折る事もなくこのような静かなものを舞わされるおシテのエラさを想像して、こちらも息づまる思いを致しましたことを覚えております。演者は寿太郎先生でした。その時の物着につき疑を抱いて居たこともありましたが、先日御話を承わり、氷解致しました。御礼申し上げます。山鳥の尾の長々しき冗文を連ねて恐縮いたします。