能楽の人、松山画伯を憶う

『松山画集』(藤井松山画集刊行会)の序文 1978(S53)年5月

 能楽を心から愛した画家、象徴の芸術といわれる能楽の心を画いた人、それが松山先生であり、あの何とも言えないほのぼのとした装束の色合いなどに能楽に対する深い愛着と、暖かい思いやりが感ぜられてなりません。
先生も幼い時から能見物に連れて行かれたそうで、「その当時は朝暗いうちから出かけましてナ、夜明けと共に翁が始まって、当時はお能拝見といって皆紋付羽織で出かけたもんです。重箱に御馳走を詰めて、お酒をチビリチビリやりながらの拝見です。のんびりしたもんでしたナ」「先生もお小さい時でしたから随分草臥れられたことでしょう」「いやいやそれがどういうもんか、私はちっとも退屈しませんでした」こんなお話でしたから、能が余程肌に合っていたのかも知れません。
 祖父七太郎の手ほどきでお稽古を始められ、父もお稽古したようです。戦災で焼失した新馬場の能楽堂の舞台抜き(大正3年4月)は喜多流宗家を迎えて翁つき五番立てという本格的な催しでしたが、先生は本職の間に交って絵馬のツレ天女を勤めておられます。こんな大役を勤めるということは、只好きというだけでなく、その技倆も相当なものだったのでしょう。この舞台の鏡板は勿論先生の筆になるものでした。先生はその後も何度か能を舞っておられ、私方に残っている記録だけでも大正4年10月「田村」、大正10年5月「猩々」があります。私も戦後ある宴席で先生の仕舞「田村」のクセを謡いましたが、「繰り返し返しても」と角へ出て角を取る型の飄々とした楽しさに感銘させられたことがあります。
 先生は京都に居られることが多く、その間も出来るだけ能の拝見は欠かさなかったとのこと、又ずば抜けて記憶の良いお方でしたから、その時々の能の番組は勿論、配役全部、あるいは代役の名前までも覚えておられ、装束のこと又その色から柄まで細かくお話をされるのには私が教えられる事も多く、只々恐れ入るばかりでした。戦後28年に私の建てた舞台の鏡板をお願いしたところ、快くお引受けいただき、約20日間ほど通って画いて下さいましたが、新聞紙を松の形に切って板に張りつけ、それを大きくしたり小さくしたり、「やっぱり七五三の割合でないとネ」とか、「一寸大皷の坐る処へ坐ってくれ」と言われるので坐ると、「このあたりから幹が出る方が良いですナ」と先生の頭の中には能を舞っている舞台の情景が画かれて、全体の調子を整えておられるようでした。謡を口ずさみながら筆を運んでおられる姿はいかにも楽しそうで、能に対する愛情が丸めた背中から滲み出てくるように思われたものです。宗家六平太先生がいつもこの松は良く出来ていると賞めておられ、その後伊勢神宮文化殿に能舞台が出来るとき、松山先生にという話もありましたが、先生の健康が許さず実現しなかったのは残念でした。私も時々能画をお願いしていたのですが、「貴方のところへはどうも……、そのうち画きましょう」と言われて中々描いて貰えませんでしたが、「お宅へはまだ大きな借りがありましてナ、大正3年の舞台披きに絵馬の女体が出たでしょう、シテが御先代、力神が粟谷益二郎先生、天女を私が勤めさせて貰って、この三体の姿を桂舟先生、水野文華さん、それに私の3人で合作して差上げようということになっていたんですが、文華さんが早く亡くなられ、その後桂舟先生も亡くなられ、今は私一人になりました。私が画かねば御先代へ申訳ないので、これは私一人で是非描きます」という有難いお語で、その後下図は見せていただいたこともあるのですが、とうとうそれもそのままになってしまいました。今にして思えぱなぜもっと度々催促しなかったかと心残りなのですが、それも昔の話、今頃あの世で合作が出来上がっているかも知れません。
 先生は語し上手、聞き上手、慈父のようなお人柄でしたから、先生を慕う者の声なき声が結集してこのたび遺作の画集が刊行される運びとなり、此の上のよろこびはありません。私も身近に置いて朝夕先生を偲ぷよすがにしたいと思っています。