十四世宗家 喜多六平太先生の思い出

「能 おおしま草紙」創刊号掲載文 2000(H12)年4月15日

 十四世喜多六平太先生は、私にとりましては慈夫のようなお方で、懐かしい思い出の多い先生です。
先生はお若い時のお稽古は相当きびしかったと聞いておりますが、戦後私達のお稽古はきびしいというより、懇切丁寧に教えて下さったように思います。いろいろと話して置けば、誰かが覚えておいてくれれば良いからと、よくいろいろと話して下さいました。
 相手方のワキは、この流儀ではこう、この流儀ではこうするから、その時はこちらはこうするが良い。よく申合せをするようにとか、又「江口」の能では待謡で「月に見えたる不思議さよ」と幕の方を見るといえば、こちらは半幕で姿を見せねばならんから、ワキに尋ねておくようにとか、永年の経験から落ちのないようにと、色々こまかく注意を受けました。
 お稽古が一通り済むと「まあ一服してな」と楽屋でお茶をいただきながら、先生は勿論お好きな煙草をくゆらせながら、芸の話やら、世間話やらしたものです。
 昔の囃子方の立派で、礼儀正しかった事、先生の若い時分、錚々たるお囃子方の連中が舞台ではお家元お家元と言ってくれるのだが、一歩外へ出ると「千代さん済まんがこのカバン持ってお呉れ」とか、なんかで、すっかり荷物持ちをさせられちゃったがな(六平太先生は幼名を千代造という)と面白おかしく昔話など聞かせて貰ったものです。そのあと話はきまって釣りの話になり、「どうだい、釣りには行ってるか、あんな景色のいい海で鈎りをしてたら永生きするよ。おいらももう一ぺん行きたいと思っていたのだが、もうこの年では出かけられないよなア、そうそうあの鞆の祇園さんで、そこの舞台が昔、伏見城にあったもので、なんでもうちの先祖が羽衣を舞って、皆んなから七太夫、七太夫と、もて囃された謂れのある舞台だから、奉納能をしようというので、君の祖父さんの年祝いの能が福山の八幡さんの舞台であった翌日、皆んな人力車で鞆へ行ったんだが、何しろ2、30人の者が人力車をつらねて行ったんだから、さぞかし沿道の人達は吃驚しただろうなア」などとお話は面白く、中々尽きないのですが、さあもう一度と又お稽古をしていただいたものです。
 祖父、父、私と三代にわたってお教えを受けているので、お話のはしばしに福山には格別の親しみを抱いて下さっている様子が窺われ、この御恩にはいかようにしても報いたいものと思っていますが、幸い政允、輝久と跡をついでこの道に精進していますので、流儀のため頑張って貰いたいと思っています。
 只一つ心残りは、先生が「大島は今お城を建てているので大変なんだ」と気にかけて下さっていた今の能舞台を見ていただけなかった事です。