戦後間もない頃、いつだったか覚えていませんが、見知らぬ人から「貴方は大島寿太郎先生という人を御存知ですか」と聞かれ、それは私の父ですと答えると、「ああそうですか、とても几帳面な、厳格な先生でしたがネ。」といわれ、それがどうしたわけか、そのお方の話しぶりが感に堪えたような言い方だったせいか、厳格という言葉が非常に印象に残っています。その人の申されたように、父は本当に厳格でした。
ある冬の晩、庭で何かしらコツコツと物をたたくような音がするので、何だろうと思って雨戸を繰って見ると、月あかりに父が庭石のそばに佇んで、何かしているようでした。「お父さん、何をしているんですか」と聞くと「いや、今日は大黒さんをお祀りする日で、いつも黒豆の御飯をお供えするのだが、今日はその黒豆が非常に少ないので、どうしてこんなに少ないのかと聞いたら、お母さんが今日は有り合せのお豆さんで炊いたと言うので、「神様をお祀りするのに有り合わせで済ますとは何事だ、そんなに神様を粗末にするようでは神様に申し訳がない、もう祀らんでよい、大黒さんも毀してしまう」と言ったのだ。今思えばなにも大黒さんを毀すことも無いんだが、言ったことだから毀さなければ嘘をついた事になるから毀しているんだ」と言ってコツコツ叩いていました。何となく身の引きしまるようなきびしい感じがしたのを覚えています。2、3三日経ってヒョッと神棚を見ましたら金ピカの大黒さんがお祀りしてありましたが。
父の存命中はよく覚えていませんが、花月、箙など能を舞いました。稽古は好きではなく試験中とか何とか言っては逃げていましたが、学期末の成績表を見られて「何だこれは、勉強などしていないではないかと叱られました。
父には私達子供はあまり叱られた事はありませんが、母親は「あんた達がちゃんとしてくれないと、みなお母さんが叱られるのよ」とよくこぼしていました。
父は行儀についてやかましく、私達子供にとっては煙たいので、食事もなるべく一緒になるのを避けていました。御飯ですよと呼ばれると、兄たちに「オイ見て来い」と一言われ抜き足、さし足で階段の途中まで降り、節穴から台所をのぞいて、まだまだとか良しとか合図をしたものです。今思えば父親も淋しかったでしょうが。
喜多流も宗家六平太先生が、明治維新の混乱期からやっと喜多流としての基礎を固めてゆく最中で、父も宗家からの再三再四の懇望もだし難く、お弟子さん方とも相談して、意を決してこの道専門になったわけで、子供も多く生まれ、苦労が多かったようです。この道専門になるには先ず能舞台がなくてはというわけで、昔の新馬場町、今の広島銀行のところに舞台を建て、そこを本拠に大阪・徳島方面まで稽古に出かけ、初謡、春秋2回の催しもし、道成寺・望月・正尊なども舞ったようです。私はそこで生まれて、生まれながら舞台があったので、この道には必ず舞台はあるものと思っていました。戦災で家も舞台も焼失し、何が何でもと舞台を建てましたが、個人で能楽堂を持っているのは全国でも珍しく、今になって驚いているところです。あとに続くものがしっかり頑張ってくれるよう祈っています。