我が道を 備後に能の燈をともし続けて

福山誠之館高校同窓会ホームページ「誠之館人物誌」掲載文 2004(H16)年1月24日

 明治維新で藩士を廃業した祖父七太郎は師匠の羽田家の跡を引き継ぎ、謡を教授し好きな能を普及することで生計を立て始めました。又、上京して14世宗家喜多六平多師に最初の内弟子として逸早く師事し、明治期、福山へも宗家に何度か演能にお越しいただいています。

 父寿太郎は幼い頃より祖父に厳しく能の手ほどきを受けて育ちましたが、後に14世宗家に懇望され、樹徳尋常小学校の初代校長の職を辞して、能楽一筋に邁進するため大正3年、新馬場町(現在の霞町)に能舞台を建て、能楽普及活動、演能活動を活発に行っていました。ですから、大正4年生まれの私が生まれた時には既に自宅に能舞台がありました。8人兄弟姉妹の6番目で三男の私は厳格な父が苦手でなるべく稽古も兄達の後に隠れるようにしていました。しかし、長姉君枝が結婚後朝鮮に移住し、そこで1年後亡くなったことが父にはかなり堪えたようで、昭和4年、私がまだ誠之館中学在学中、59歳で亡くなりました。長兄の厚民もまだ大学生でしたので、8人の子を抱えて母は途方にくれたと思います。幸い、家屋敷の周りの田畑を売りながら、私達は学校を卒業させてもらいました。

 父の死後、父の高弟の方々から大島兄弟のうちだれか家元に師事して父の跡を継ぐよう要請があり、三男の私に白矢がたちました。私が誠之館中学を卒業して宗家の内弟子修業に上京したのが、昭和7年のことです。福山でのんびりと過ごし、家でしたことのない雑用をあれこれしなければなりませんでしたので、内弟子生活はなかなか厳しいものでした。兄弟子に何か聞いてもなかなか教へてもらえず、ただ人の稽古を見て芸を盗めと言われました。その後、14世宗家六平太師に師事し、大層懇切丁寧な教えを受けました。有難い事に祖父、父、私と大島家3代にわたって名人14世にお世話になりました。途中、昭和10年、徴兵検査を受け1年ほど兵隊生活をしましたが、病気をして除隊しました。福山空襲で生家も能舞台も焼けてしまったことを修業中の疎開先で知り、その年の9月、福山に帰ってまいりました。

 祖父と父が残してくれたものは、ほとんど焼失しました。しかし、焼土化した福山に、もう一度、文化の燈を灯したい。祖父、父が伝えてきたものを次の時代へ伝える事が私の使命だと強く思い、戦後いち早く簡単な稽古場を建て、橋掛かりも付け、昭和22年11月2日には、14世宗家、15世実先生、16世を招聘して大島家先祖追善能を催しました。又、昭和23年10月10日には14世宗家をお招きして、母校誠之館講堂にて喜多流演能会を、昭和25年11月19日にも誠之館講堂で井口法太郎氏追善能を催しました。

 このように、戦後すぐに演能活動ができましたことは社中の方々や誠之館時代の同窓生、同期生が物心両面で応援して下さったおかげです。同窓会の度に各地より同期生が集り、福山の町をあちらこちらと飲み歩いた後、最後は私の家でというのが永い間の定番でした。同窓会だけでは物足りないと寄れる者で寄ろうやあと"よろう会"と称して私方に集まり、寄ると皆、誠之館時代の青年の気持ちに帰り話が弾んだものです。
私達夫婦は子どもに恵まれなかったものですから、夏冬の長期休みに甥や姪を預かり、遊びがてら稽古をつけていました中の一人、長兄厚民の息子・政允を小学校6年生の時、跡取りと決めて養子とし、後に政允の嫁に同期生の吉田重夫氏の三女・泰子を貰い受けました。

 質の高い演能を定期的に催すことで能楽をもっと普及したいと思い、昭和33年には能楽教室(定例鑑賞能)を興し、年4,5回のペースで催し始めましたが、私以外の能楽師は東京、京阪神、広島の各地から招聘しなければなりませんので、金銭的な負担はかなりなものでした。戦後建て増ししながら使っていました能舞台も古くなりましたので、昭和46年、思い切って能舞台を建て替えまして、3階建てのビルの中に能楽堂を造りました。補助席を入れて380席ほどの客席を有します。 ― 中略 ―

 その後、この舞台を拠点として数多くの演能を催し、大曲も披かせていただきました。昭和63年には、16世宗家継承記念能で能「鷺」を弟子家では私が初めて勤めさせて頂きました。又、平成3年、私の喜寿祝賀能で能「木賊」を、平成6年、傘寿記念能では秘曲の能「伯母捨」も披かせて頂きました。幸いに現在は政允や孫の輝久、衣恵が引き継いでくれていますので、私の役目は果たしたという充実感とともに、平成9年に能「西行桜」の舞台を勤めましたのを最後に「プロ能楽師 大島久見」を引退し、その後は、社中の会(福山喜多会)で気ままにお弟子達と謡や舞を楽しんでおりました。― 中略 ―
 残念ながら現在、私は病に伏しておりますが、母校の今後益々の発展を祈念してやみません。