久見メモリー
大島久見先生 森田流笛方 帆足正規
『能楽タイムズ』第624号(平成16年3月1日) 「気まま見たまま思うまま47」掲載文
沼名前神社能舞台にて「実盛」を舞う(H7年) 能楽シテ方喜多流職分 国総合指定重要無形文化財 日本能楽会理事(H7~14年度) 享年90歳 |
2月3日、89歳で亡くなられた大島久見先生は、天寿を全う、などという言葉を思いつかない程、若々しい情熱を能に対して持ち続けられた。
「何某先生は、仕舞や舞囃子は上手だが、能は下手だ。能には人間性が大事だ。」
というような事を書いて居られる。芸論としても、能楽論としても一つの問題提起だが、その批判精神の若さと強さに驚ろく。
始めて先生の能の笛を勤めたのは昭和50年だったが、笛座から見た後姿にウッとうめいた。グイと張った臂の強さに、確かに十四世喜多六平太師が見えた。舞台に根が生えたような不動の姿が、一転すると大風を起した。只似ているのではない。芯になっているものがそのまゝ伝わっていると見えた。只形を学んでも、とてもこうはならない。どうやってあの芯になるものを取り込んだのか。その後、度々お話を伺う内に、並々ならぬ師弟の関係は知れた。
これは想像だが、大島先生は、只素直に教えに従ったのではないように思う。叱られ、たたかれ、反発もし、批判的に、主体的に師と向き合い、結果はより大きな師の中に取り込まれたのではないだろうか。私には、芯になる六平太師の能の心を、技と共に自らの体の中で磨き上げた、大島先生の能、と見えた。
先生の文章の中に、六平太師が
「おいらの工夫した型を教えてやろう……」
とおっしゃった、というような部分があった。流儀の伝承のあり方などはひと先ず置いて、この言葉だけを考えると、六平太師は創造者、大島先生は、その創作を古典として確立、伝承した、と考えることが出来る。
大島先生が、師に傾倒されたように、福山の舞台には、大島先生の芸と人を慕う人々が集まった。他流の人もいた。畏友山本真義さんも、「木賊」を披く前、大島先生のそれを見にやって来た。当日は都台悪く、申合せせだったが先生は快よく招じて居られた。
私は、能が時代と共に変ってゆくことは間違いないと思っている。只、その変り方は、時々の中心になる人に引かれてゆく。一つの流れのように思っていた。しかし大島先生とその周りの人達を見ていて、世代を超えた、隔世遺伝のような伝わり方があることを頼もしく思うようになった。大島先生のおかげで、六平太師の能の心が、技が、世代を超えて後世に生きて行くことを、この上なく有難い事と思っている。
残念なことは、大島先生がもっと中央で多くの能を舞って居られれば、ということである。栄誉の関わりなどは、先生は少しも思って居られなかったろう。私の思うのは、先生のあの能を、もっと多くの人に見せたかったということである。
告別式の行われた舞台の中央には、靹の浦の秀吉ゆかりの舞台で舞われた「実盛」の仕舞の写真が飾られていた。生前、この写真を使えと言って居られたお気に入りのものだそうで、やはりグイと張った臂が美しく、この古武士の姿と先生とが重なって見えた。
祖父と孫 難波健治
中国新聞備後本社支局長(現 広島本社論説委員) 『中国新聞』「社内報(2月)」 掲載文
JR福山駅から南へ歩いて15分余りの市街地に能楽堂があるのをご存じだろうか。「喜多流大島能楽堂」という。380の座席を備えた、中四国地方では唯一の本格的な能楽堂である。これをつくった能楽師大島久見さんが3日夜、亡くなった。89歳だった。
大島さんは3歳で初舞台を踏み、1932(昭和7)年に喜多流宗家に入門。人間国宝の十四世喜多六平太に師事した。45年8月の福山空襲で実家の能舞台が焼失し帰郷して焼け野原の市街地に舞台を再建。58年からは年4回の定例鑑賞能(能楽教室)を始めた。解説付きの演能として一般の人たちへの能楽普及の先駆けだった。そして71年、福山市光南町に建設したのが、現在の能楽堂である。
「死ぬまで勉強」が口ぐせで、94年の傘寿記念能では喜多流で長く舞ったことのないとされる秘曲「伯母捨」を披露。抑えた動きの中に深い情愛を表現し、賞賛を浴びた。昨年1月、88歳で素謡「翁」のシテを務めたのが最後の舞台。この間、山陰や広島にも出向いて後進の指導にも励んだ。福山に住みながら地方での能楽普及に生涯をささげた人だった。友人で人間国宝の狂言師茂山干作さんは「格調高い能を舞う人で、人間国宝になる値打ちのある人だった」と評している。
私は直接お会いしたことも舞う姿を見たこともないが、孫で喜多流初の女性能楽師衣恵さん(29)の舞台の後見を努めたのを見たことがある。
昭和58年12月 能「月宮殿」の子方の稽古 於 大島能楽堂 左から 久見 輝久 衣恵 文恵 政允 写真提供:中国新聞 |
それにしても、亡くなられて思うのは孫たちへの影響カの大きさである。大島家には、久見さんのおいで養子の現当主政允(61)さんに一男三女がある。「祖父がいなかったらこの道に入っていなかった」と語る長女の衣恵さんをはじめ、孫4人全員が能楽の道を極めようと精進している。
数ヶ月前、九谷焼作家で人間国宝の三代徳田八十吉さん(70)に会った。祖父の話になった。
「若いころ家を飛び出し、やりたい放題の私だったが、祖父は私を陶芸家にしようと周到に企てた。「『ほしいものを買ってやる』と連れ歩き、子どものころからいろんな陶芸作品を見せたり触らせたりした。すぺて超一流のものぱかりだった」「私の最初の作品はなかなか売れなかった。ある日祖父が『お前の作品をほしいものがおる』と言って金を置いていった。何年か後、ある飲み屋に飾ってあるのを見つけた。祖父がただで置いていったものだった」
能に詳しい随筆家の白洲正子さんは、五十六世梅若六郎さんの初舞台に祖父の実さんが後見で座っていたのを見て、次のように書いている。
「孫のさす手ひく手の一つ一つに、はらはらどきどきしながら、自分もいっしょに舞っている、というより、うしろで操っているように見えた」
「父親と息子の場合はこのように一心同体とはいかない。いくら仲がよくても、父を超えようとしない息子はダメだし、また息子を競争相手と見ない父親も、父親の役目を十分に果たしてはいない。能のように伝承を重んじる世界では特にその傾向が強い」
この人たちと比ぺようもない俗世に住む私だが、福山に能を根付かせた一級の文化人の逝去にあたり、祖父になったぱかりの身として孫について考えさせられている。
弔辞 福山喜多会名誉会長 高亀 寛
謹んでこの弔文を大島先生の御霊前に捧げます。
昨春、脳出血の発作で入院され、一時経過良好との報でしたが、一昨日急逝されたとの報に驚き入りました。御高齢とは申せ、福山の、いや国の宝を失った無念さでいっばいです。
私は40年前、先生の門をたたき、お稽古を始めましたが、先生の芸に対する情熟はとても高邁なもので、緊張の連続でしたが、素人弟子に対しては限界を越えてまで強要されず、気持ち良く慈父の様な温みのある御指導を受けましたこと、感謝の他ございません。私が入門して間もなく全国に先駆けて「能楽教室」が開かれましたが、当時福山に立派な能舞台を建てることを大きな夢とされ、その相談をいただいたことがありました。当時の市長さんが大変御理解のある方で、各方面への御協力、御尽力により日本一立派な檜を世話していただき、この大きな立派な舞台を備えた能楽堂を完成されました。
戦災から復興した福山に、個人独力で当時建設された不減の道場であると噂され、六平太先生からも「大島は今お城を建てているので大変なんだ」と気にかけられながら亡くなられたことは、久見先生にとっても大変心残りなことでしたでしょう。
この舞台も、その後間もなく政允先生の結婚式場となり、喜多実先生御臨席のもと、当地方には見られない古色豊かな式が行われ、久見先生御夫妻も大変御満悦の御様子でした。
10年前に久見先生が能「伯母捨」を演ぜられ、東京からも多数見学、鑑賞にも来られ、高い評価をいただかれました。月と仏と老媼との極限の幽玄味、能の大奥を見せていただいたこと、今でも私の脳裡に深く刻まれております。
最後になりましたが、先生の御功績に更に素晴らしいものがございます。それは、立派な後継者を育てられたことです。政允先生御夫妻とその御子息達です。政允先生御夫妻の御教育により立派に成長され、夫々の道を立派に歩んで大島家を末長く繁栄、成長、発展させられること疑いありません。
先生、どうか御自慢のこの立派な能舞台の上で、安らかにお眠り下さい。
御冥福を心よりお祈り致します。 平成16年2月6日
お別れに 小野長生
無二の親友・能楽師の大島久見氏が昨年脳梗塞で倒れ、今年に入って2月3日、肺炎を併発して亡くなられました。享年90歳、は長寿を全うされたというべきか。告別式で喪主が「父は葬式は自分が建てた喜多流能楽堂の舞台で行うように、式場に飾る写真はこの『実盛の仕舞』が気に入っていてこれを使うようにと、言っていましたのでその通りにしました。指図どおりで大変楽でした。」と挨拶され、印象が残りました。
私にしてみれば無二の親友を失い"生きがい、いのち"の源泉のような人だったので、寂しさは一通りではありません。私の64歳から79歳までの15年間、福山市の喜多流能楽堂に年4回、能楽の舞台写真の記録(ライフワーク)に通っていました。それらを纏めて『大島久見傘寿記念写真集』の編集出版を担当させて頂き、大変やり甲斐のある、私にとっても生涯の宝となりました。
-地元の老人クラブの会誌に、先生とお別れした弔辞を編集後記に書きましたので、仏前にお供えください。 平成16年3月3日記
弔辞 喜多流大島会会長 松岡 巌
大島喜多会の同門を代表して、謹んで哀悼の辞を捧げます。
同門の我々は、今日の日を覚悟は致しておりましたが、先生を失った今、その悲しみと寂しさは筆舌に尽し難いものがあります。
久見先生の能に対する情熱は、能楽堂の創建という御業績に結実しておりますが、人間国宝十四世喜多六平太の薫陶を受けられた久見先生の格調高い御指導は、同門諸氏の心に深く刻み込まれております。
久見先生の御指導は、厳しさと優しさに溢れていました。
私事になりますが、先生と相対して稽古を受けている時、額に汗しても遂にこれを拭く事が出来ませんでした。さながら真剣で勝負していている体でした。
又こんな想い出があります。
或る日、見所に静かに忍び入りましたら、久見先生が政允先生の謡いで能の稽古をされていました。わずか二歩~三歩の動きでしたが、その集中力が凄まじく、久見先生の下着は汗でびっしょりと濡れておりました。此の時の感動は生涯忘れ得ぬものとなりました。このことを奥様にお話ししたら「主人は最近、一番一番、もう二度と舞えぬものと一生懸命稽古している様です」と云っておられました。
先生は厳しさの一方で、大変優しい方でした。よく舞台で、お孫さん達の手を取って廻りながら指導されていたお姿を想い起します。
昭和61年9月21日 能「唐船」 シテ:大島久見 唐子:衣恵・輝久 日本子:文恵・紀恵 |
先生は、お孫さん達4人を全員能楽の道に導かれました。大変立派な教育者と云えます。時々お孫さん達の仕舞いを見ていますと、お爺ちゃんが乗り移っているのかなと思うことさえあります。
今年の10月2日には、リーデンローズ大ホールで、お孫さん達が主役の、青年能楽師による 青少年達のための能楽ワークショップが行われます。
久見先生、後はもう大丈夫ですよ。先生の格調高い芸風は、政允先生はじめ、輝久君、衣恵ちゃん、文恵ちゃん、そして紀恵ちゃんへと脈々として受け継がれています。
将来、此の若い力が、地域の能の文化を支えていく大きな柱になる事は間違いありません。久見先生、安心して大往生して下さい。
先生は"西行桜"を最後として「我が人生に悔なし」と大島草紙に書いておられました。
誠に先生の生涯は、充実して意義のある御一生でした。正に同門の誇りであり、福山市民の誇りでもあります。同門の我々も、これからは先生のお教えを深く心に留め、稽古に励みたいと思いますので、先生も我々の事が気になりましたら、時々は此の能楽堂に舞い戻って、西行桜の老人の如く、悠然として我々を見守って下さい。
先生の御冥福を心より祈ります。
平成16年2月6日