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鑑賞の手引き 俊成忠度 (しゅんぜいただのり)

内藤左衛門(?) 作  時:春  所:京都、藤原俊成の屋敷

武蔵国の武士岡部六弥太忠澄(ワキ)が、藤原俊成の屋敷を訪ねてくる。忠澄は一の谷の合戦(1184)で平忠度を討ったが、その時忠度の箙(腰に着け矢を入れる武具)に和歌を書いた短冊が結び付けてあるのを見つけた。そこで、忠度と歌道を通じて親しかった俊成のもとへ、短冊を届けに来たのである。

家人(シテツレ)に案内を請うと、すぐに俊成(シテツレ)の前に通される。忠澄は事情を話して矢につけた短冊を手渡す。俊成は、話に聞いていた東国の武将が目の前にいることが感慨深く、「まったく、戦いの道以外に武士が名を残す方法は無いのだから。しかし、いつの間にか忠度が歌の道でも名を残したのは哀れな事だ」と述懐し、気を取り直して短冊を読む。そこには「旅宿の花」という題で、
行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし(旅の途中で日が暮れて桜の木の下で野宿をすれば、花が今夜の宿の主としてもてなしてくれるだろうか)
という歌が書き付けてあった。

その夜、俊成は忠度を悼み「道義を守り歌道を極め、武名も揚げた忠度は文武両道を備えておられた。仏法の救いの舟に乗って彼岸の浄土に至り給え」と祈る。
すると戦装束を着けた忠度の霊(シテ)が現れ「前途程遠し、思を雁山の夕べの雲に馳す(旅の道のりは遠く、前途の雁山に掛かる夕雲に思いを馳せる。『和漢朗詠集』忠度が都落ちの直前に俊成を訪ねた際、再会の無いことを予期して口ずさんだ詩)と詠じる。「西海の戦に沈んだ身ですが、都の春に惹かれて戻って来ました。以前は共に花を眺めた、私の面影がお見えですか。命ただ心に叶ふものならば何か別れの物憂かるべき(命がもし思い通りになるものなら、(また会うことができるので)別れがつらいこともないだろうに。『古今集』)俊成卿、忠度が参りました」と名乗る。

驚く俊成に、霊は「千載集(1188成立の勅撰和歌集。俊成の編纂)に私の歌を一首入れてくださった御志は有難いですが、読み人知らずとされたのが心残りです」と訴える。朝敵ゆえに勅撰集に名を載せることができなかった事情を話し、この一首があれば作者は明らかだから安心するようにと慰めると、忠度も納得する。二人は互いの情の深さを思い、その「故郷の花」という題の歌を詠じる。
漣や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(志賀の廃都は荒れ果てたが、長等山の山桜は昔のままに咲いているよ)
忠度はこの歌で永く名を残せることを喜び、謡うのも舞うのも何事も仏法に繋がるのだと言う。和歌について語るよう頼まれ、和歌が仏の教えに通じることを述べ、神代にスサノオの尊が三十一文字の形に定めたことを語って和歌を讃える。

【忠度の歌物語】スサノオの尊が出雲の国で妻と住む宮を建てたとき、彩雲の立つ
のを見て「八雲立つ出雲八重垣妻籠めに八重垣作るその八重垣を」と詠まれた
のも今の世の先例となること。私が須磨の浦に旅寝したときは、「ほのぼのとあかしの浦の朝霧に島隠れ行く船をしぞ思ふ」という柿本人麻呂の歌を実感した。 人麻呂が世を去ってから歌の道は途絶えたというが、文字のあるかぎり歌道は絶えない。和歌は神も喜び、男女の仲立ちともなるものである。

忠度は夜の更けるのを惜しむが、突然不気味な様子に変わり、修羅道の世界が眼前に現れる。阿修羅王が梵天に攻め上り、帝釈天が下界に追い落とす激戦に忠度も混じるが、天から火が降り地から剣が突き出し、凄まじい苦患を受ける。
しかしそのうち、「漣や~」の歌に梵天が感動したことにより、忠度は修羅道の苦しみから救われ、もとの穏やかな春の夜に戻る。互いに名残を惜しみ、夜が白々と明けるころ、木陰に隠れるように姿を消す。