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鑑賞の手引き 羽 衣 (はごろも)

作者不明  季:春  所:駿河国(静岡)三保の松原

※後見が、松に衣を掛けた作リ物を舞台正面先に置く。


白龍という名の漁師(ワキ)が、仲間の漁師(ワキツレ)を連れて浜辺に釣りに来る。のどかな春の朝で、松原の続く渚に朝霞が立ち、空には月が残っている。穏やかな風が松の枝を鳴らし、朝凪の海に釣り人の小舟が多く出ている。


白龍が仲間と離れて景色を眺めていると、不意に虚空から花が降り、音楽が聞こえ、霊妙な香りが漂う。驚いて辺りを見ると、近くの松に美しい衣が掛かっている。普通の衣とは違っているので、「家宝にしよう」と、衣を取って歩き出す。


すると、美しい女性(シテ)が現れて「その衣は私のものです。なぜお持ちになるのですか」と言う。「私が拾った衣なので持って帰るのです」と答えると、「それは天人の羽衣で、たやすく人間に与えるべきものではありません」と、もとに戻すよう頼む。女性が天人だと知って「では国の宝にしよう。衣は返しません」と拒むと、天人は「羽衣が無くては空が飛べず、天上に帰ることができません。どうか返してください」と悲しむ。


弱々しい様子に、白龍は強気になり、衣を隠して持ち去ろうとする。天人は天に昇ることも下界に住むこともできず、羽の無い鳥のように困り果て、涙をこぼし、髪飾りの花も萎れて、悲しみのあまり死んでしまいそうなほどの有様である。
天の原ふりさけ見れば霞立つ雲路惑ひて行方知らずも(天を仰ぎ見れば霞が立ち、あの雲路をどこへ行けばいいのか分からない。『丹後国風土記』逸文、天女の歌)


住み慣れた空を行く雲を羨み、北へ帰る雁の声や沖の千鳥や鴎、空に吹く春風にさえ帰りたい思いが募る。
あまりに嘆くので、白龍は同情して衣を返すことにする。喜んで受け取ろうとすると「その前に、話に聞く天人の舞楽を見せてくだされば、お返しします」と条件を出す。天人は「ではお祝いに、月の宮殿の舞曲をお伝えしましょう。ただ、衣が無くては舞えないので、まずは返してください」と頼む。白龍が「返せばそのまま天に昇ってしまうのではないですか」と疑うと、「疑いを持つのは人間だけ。天に偽りというものは無いのに」と答える。白龍は恥ずかしくなり、すぐに衣を渡す。〔※物着。舞台後方で後見がシテに衣を着ける〕


衣を着けた天人は、天上界の霓裳羽衣の曲そのままに舞い始める。これが、今に伝わる東遊(東国の風俗歌に合わせた舞で、平安時代宮廷に取り入れられたもの)の駿河舞の始まりだろうか。
「久方の空」というのは、伊弉諾・伊弉冉の二神が国産みをしたとき、空は限りが無いからと付けた名である。また、月宮殿には白衣と黒衣三十人の天人がおり、夜毎に白と黒の人数を変えて十五人ずつ奉仕するので、月の満ち欠けが起こる。 天人は「私もその天乙女の一人なのです」と教え、ゆったりと舞い始める。

春霞棚引きにけり久方の 月の桂の花や咲く げに花桂 色めくは春のしるしかや 面白や天ならで ここも妙なり天つ風 雲の通ひ路吹き閉ぢよ 乙女の姿 暫し留まりて この松原の 春の色を三保が崎 月清見潟富士の雪 いずれや春の曙 類ひ波も松風も 長閑なる浦の有様

 

御代の長久を寿ぎ、虚空に音楽満ち花が降る中、優雅に舞い続けるうちに時が移り、落日が富士山を紅に染める。天人は月の天子とその本体である大勢至菩薩に祈り、音楽に乗って舞う。〈序ノ舞〉
やがて満月の昇るころ、天人は羽衣をたなびかせて舞い上がり、地上に祝福を降らせながら、富士の高嶺を越えて天に昇って行き、霞に紛れて見えなくなる。
さる程に時移って 天の羽衣 浦風に棚引き棚引く 三保の松原浮島が雲の 愛鷹山や富士の高嶺 かすかになりて天つ御空の 霞に紛れて失せにけり